第29話 焦燥・沈着・動揺

 フランス軍陣営には焦りと苛立ちが高まっていた。

 戦闘開始からすでに1時間が経過しているが、容易く攻略できると思われていたジュミオンクール農場は、いまだ敵の手中にある。

 大軍同士のぶつかり合いであればフランス軍に一日の長があった。だがブラウンシュヴァイク公国軍は、獅子に群がる蝿のように、何度追い払ってもしつこくフランス軍の行く手に立ちはだかった。


「第1軍団を。デルロンを呼べ!」

 業を煮やしたネイが叫んだ。

 デルロンことエルロン伯爵ジャン=バティスト・ドルーエ中将が率いる第1軍団は、予備軍として後方に控えている。ナポレオンがプロイセンと戦うリニー、そしてネイがイギリス軍と戦うカトル・ブラ、そのどちらへも急行できる位置である。


 フランス軍は、現段階ではまだ数の上で敵を上回っている。

 しかしブラウンシュヴァイク公国軍をはじめ、敵方には続々と援軍が到着しつつあり、いずれはこちらを上回るであろう。そうなる前に手を打っておかねばならない。小さな農場1つに手こずっている場合ではないのだ。


 だがネイの指示に対し、慎重派のレイユが異議を唱えた。

「予備軍を動かすには皇帝陛下の許可が必要です」

「ここから皇帝陛下の下へ伝令を走らせ、陛下の許可を得た後に第1軍団を呼びにやるというのか?状況は一刻を争う。そのような迂遠なことをしている余裕はない」

「無断で動かせば後で問題になりましょう」

「動かさねば、そもそも後がなくなるのだ。陛下にはいずれ俺から説明する。今は勝つことだけを考えろ」

「……承知しました」

 ネイの強い口調に、レイユは渋々引き下がった。


 間もなく、デルロンに宛てて伝令が出発した。

 デルロンの第1軍団は2万人である。現在カトル・ブラ周辺に展開するフランス軍兵力1万8000に第1軍団が加われば、カトル・ブラは容易に攻略できるはずだ。しかる後にリニーへ急行して戦列に加われば、ナポレオンも納得するであろう。

 とにかく今は、2万もの兵を予備軍として待機させておく余裕はないのだ。

「それにしても——」

 ネイは誰に言うでもなく呟いた。

「あの蝿どもをどうにかせねば」

 ネイは戦場を縦横に駆ける黒い兵団を忌々しそうに睨んだ。


   *


 ヴィルヘルムは、戦闘開始以来休むことなく馬を駆り、最前線で指揮を執り続けている。

「少し後方に下がって休まれていはいかがですか」

 オルファーマンが主君の身体を気遣って言った。

「兵士らは休んでおらぬ。大国の軍隊ならいざ知らず、我がブラウンシュヴァイク公国では、君主は司令官であり、そして兵士でもあるのだ。休むわけにはいかぬ」

 言い終わらぬかのうちに彼らの近くに砲弾が着弾し、石や土が激しく飛び散った。

「敵の攻勢が激しくなっているな」

 数々の戦場をくぐり抜けてきたヴィルヘルムは、動じることなく落ち着いた口調で言った。


 戦況は相変わらず一進一退の攻防が続いている。だが前線では少しずつ変化が起きていた。

「気付いているかオルファーマン、敵の動きに変化がある」

「はい、我が軍の前方に兵を集中させつつありますな」

「一気に中央突破を図る気だろう」

「我が軍は今でもどうにか持ちこたえている状態。これ以上敵が増えるとやっかいですな」

「敵の態勢が整う前にこちらから攻撃を仕掛ける。槍騎兵、突撃用意!」

 号令とともに黒光りする槍を携えた騎兵の一団が進み出た。


 ヴィルヘルムはフランス軍陣地を見据えた。青い制服を着た歩兵団が陣形を整えつつある。その背後に見えるのは、敵将ミシェル・ネイ直属の部隊か。

 ヴィルヘルムは騎兵団の先頭に馬を進めた。そして静かに右手を挙げた。

「突撃!」


   *


「うわあ、こっちに向かってきますよ」

 フランス軍歩兵部隊の方陣の中で、アルノーは思わずロベールに身を寄せた。

「くっつくんじゃねえよ。大丈夫だ、陣形を崩さずにいりゃ相手だってそう簡単には手が出せねえ」

「でもあんなに沢山いるんじゃ、どれを狙って撃てばいいか分かりませんよ」 

「お前みたいな新米が狙って撃ったところでどのみち当たりゃしねえ。いいか、とにかく真っすぐ前を向いて撃つんだ。敵から目を逸らすな。それだけだ」

「分かりました。真っすぐ前ですね」

 アルノーはこちらへ向かって疾走してくる敵を見つめた。

 舞い上がる砂塵のなか、黒で統一された兵団は遠目には一人ひとりの見分けはつかない。だが、アルノーはその中の1人の騎兵に目を奪われた。右手にランスを構え、左手で激しく手綱を操り、兵の先頭を突き進んで来る。

 彼が指揮官なのだろうか。ただならぬ気魄を背負っているのが離れていても分かる。


「撃ち方用意!」

 味方指揮官の怒号が飛んだ。

「いいか、落ち着いて撃てよ」

「真っすぐ前ですね」

 アルノーは銃口を正面に向けた。その先にはあの騎兵がいる。豊かな髭。鋭い眼光。大きく口を開けて何かを叫んでいる。

「まるでゼウスだ」

 アルノーは全身に戦慄を感じた。

「真っすぐ前、真っすぐ前……」

 呪文のように唱えながら引き金に指を掛けた。

 もう一度指揮官の怒号が響いた。

「撃て!」

 アルノーは引き金を引いた。

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