第28話 メフィストフェレスに捧ぐ(1)

 ウェステンベルクらがオラニエ公の陣がある北の方角へ向かったのを見届けると、ヴィルヘルムは手綱を引いて馬首を南へと返した。

 彼の前には精悍な黒衣の兵団。少し距離を置いて、フランス軍が対峙する。

 天空から注ぐ陽射しは熱く、戦場の風は弱い。敵の頭上に掲げられた三色旗は力なく垂れ下がっていた。


——シュヴァルツェ・シャール現る。

 その報せに、ジュミオンクール農場攻略を目前にして楽観ムードの漂っていたフランス軍は浮足立ち、攻撃を中止して自陣へ退却した。

 フランス軍兵士の中には、シュヴァルツェ・シャールと直接銃火を交えたことのない者も多く存在していた。それだけに、かえってその戦いぶりが伝説的に伝えられ、その名を聞くだけで彼らを震慴させたのである。


 退く敵を、ヴィルヘルムは追わなかった。ウェリントンの軍にヴィルヘルムのシュヴァルツェ・シャールを合わせても、それでもまだフランス軍の兵力には及ばない。この状態で自分たちだけが味方から突出して敵を深追いするのは避けるべきであった。


 うつむき、瞼を閉じ、右手を胸に当てた姿勢で、馬上のヴィルヘルムは何事かを呟いた。

「神に祈るとは珍しいですな」

 馬を並べてきたのは、副官のオルファーマン大佐であった。

 ヴィルヘルムとは対照的に、険のない穏やかな顔つきをしている。

 もともと軍楽隊の奏者であったところを、指揮官としての能力を見出されて軍人になった異色の経歴を持つ。一見すると線が細く、軍人としてはやや頼りなく見えるが、精鋭ぞろいのシュヴァルツェ・シャールの中でもヴィルヘルムが最も信頼している男である。

「殿下は神に頼らぬお方と思っておりました」

「9年前、私はナポレオンに祖国を奪われ、父を殺された。それ以来、祖国を回復すること、そして父の仇を討つこと、その2つだけを望んできた」

 抑揚のない淡々とした声の奥底に、深い悲しみが沈んでいることを、オルファーマンは知っている。

「望みのうち1つは叶った。フランス軍を駆逐し、私は祖国に凱旋した。されど、もう1つの望みは叶わぬままだ」

 ヴィルヘルムの父カール・ヴィルヘルム・フェルディナントは、フランス軍との戦闘中に負った傷がもとで死亡した。それは軍人の家族ならば誰もが覚悟しているはずのことであり、ナポレオンを恨むのは筋違いかもしれなかった。

 だが家族を失った悲しみは、結局のところ本人にしか分かり得ぬのであり、他人がとやかく言うべきものではなかった。


「ファウストの伝説を知っているか」

「ファウスト……ですか」

 唐突な問いかけの意図を量りかねて、オフファーマンは言葉に詰まりながら答えを返した。

「望みを叶えてもらう代わりに、悪魔メフィストフェレスに魂を売ったとかいう……」

 それは、ドイツに伝わる伝説の魔術師の物語である。近頃では、詩人のゲーテによって戯曲化され話題を呼んでいるため、オルファーマンもその名を聞いたことがあった。

「ああ。伝説の中でファウストは、欲望の代償として、メフィストフェレスに魂を奪われ、破滅する哀れな男として語られる。だがな……」

 ヴィルヘルムの声は、溜め込んだ苦しみを吐き出すように、低くくぐもっている。

「ナポレオンを討つことが叶うのであれば、私も悪魔に魂を売ってもいいと考えている」

「……」

 答えるべき言葉が浮かばず、オルファーマンは黙り込んだ。

「ナポレオンは怪物だ。斃れてもまた地獄の底から這い上がり、こうして我々に邪悪な牙を突き立てる。怪物の息の根を止めるには、悪魔の力が必要だ」

 主君の悲愴なまでの決意に、オルファーマンは身の震えを覚えた。それが恐怖のためか、それとも興奮のためであるか、彼自身にも分からなかった。


 そのとき前方に白煙が上がった。少し遅れて砲声が鼓膜を震わせる。さらに遅れて、腹の底に響く轟音と共に、土煙が彼らの目の前に立ち昇った。

 態勢を立て直したフランス軍が、再度攻撃を仕掛けてきたのである。

 シュヴァルツェ・シャールの兵士らは、動揺こそせぬが、命令を求める視線を馬上のヴィルヘルムに向けている。


「敵の司令官はミシェル・ネイであったな」

「はい」

「半島戦争で相まみえたことがある。勇猛果敢な戦いぶりで、軍人として敵ながら尊敬できる人物だった」

 ヴィルヘルムの憂いを帯びた目は、正面のフランス軍ではなく、その先にあるものに向けられていた。

「ネイに対して恨みはない。それでも、彼を倒さぬ限りナポレオンと戦うことは能わぬ。」

 そう言うとヴィルヘルムは、黒馬を軍の先頭に進めた。


 無言で右手を挙げ、一気に振り下ろした。

 居並んだ12門の6ポンド砲が一斉に赤い炎とともに咆哮を放った。それを皮切りに7000人の兵が戦場に展開していく。


 フリードリヒ・ヴィルヘルムは、戦略家としては傑出した才能を有していた訳ではなかった。むしろ凡庸な部類と言ってよいかもしれない。

 半面、用兵家としての才能は非凡なものがあった。

 歩兵中心のイギリス軍の中にあって、シュヴァルツェ・シャールは5000人の歩兵、1000人の砲兵の他に、騎兵1000騎を擁し、抜群の機動力を誇っている。

 シュヴァルツェ・シャールは元来、ナポレオンの侵攻によって国を奪われた者たちによる非正規軍である。そのため、彼らは大規模な野戦よりも、ゲリラ戦や奇襲攻撃を得意としていた。

 その機動力を活かすため、ヴィルヘルムは敢えて兵を戦場に分散させた。そして寄せては返す波のごとく、多方面から攻撃と退避を繰り返した。

 この戦術の前に、攻め寄せたフランス軍は翻弄され、ジュミオンクール農場は容易に陥ちる様子を見せなかった。

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