第32話 迷走(1)

 村の中心に建つ教会の鐘楼が、がらがらと大きな音を立てて崩れ落ちた。

 熱風と共に灰色の煙が猛スピードで地表を覆い、巻き込まれた者たちが悲鳴をあげて倒れていく。

 穴の開いた屋根からは、赤い炎が天を衝く柱となって噴き上がる。

 村中の家という家から、黒煙が濛々もうもうと立ち昇っている。


 カトル・ブラの十字路から南東におよそ10キロメートル。

 のどかな田園風景にたたずむ平和な村リニーは、村始まって以来の惨劇に見舞われていた。

 村の付近一帯に陣を布くプロイセン軍と、そこに攻め寄るフランス軍。両軍の戦闘が始まったのは今日昼過ぎのことであった。

 直後から、フランス軍は何十発もの砲弾を村に撃ち込んだ。

 プロイセン軍も激しく応戦し、一進一退の攻防が数時間に渡り展開された。

 陽が西に傾く頃には、村の建物で原形をとどめているものは皆無と言ってよいほどになっていた。


 戦闘に臨んだフランス軍は6万。対するプロイセン軍は8万4000。

 戦況は当初、兵力に勝るプロイセン軍の優位に進んでいた。

 しかし戦争の天才ナポレオンは、用兵の巧みさにおいてプロイセンの総司令官ブリュッヒャーの上手を行っていた。

 フランス軍は、攻め寄せては素早く退き、プロイセンに反撃の機会を与えなかった。薄く皮を剥いていくように、徐々に敵の兵力と士気を削いでいった。


 プロイセン軍の布陣にも問題があった。

 戦闘が始まる前、ウェリントンがブリュッヒャーに懸念を示したとおり、遮るもののない丘の斜面に身をさらしたプロイセン軍は、砲戦に長けたナポレオンの格好の餌食となったのである。


 こうして夕刻には、フランス軍の優位が目に見えて明らかとなっていた。

 勝利を揺るぎないものとするため、ナポレオンは左翼に展開するドミニク=ジョゼフ・ルネ・ヴァンダム中将率いる第3軍団をプロイセン軍の横腹に突入させ、とどめの一撃を加えんとしていた。


 ヴァンダムはフランス軍きっての武闘派将軍である。その武功は誰もが認めるところであり、本来であれば元帥位に叙せられていて然るべき人物であった。

 しかしその性格は狂犬のごとく猛々しく、事あるごとに同僚と対立、時にはナポレオンさえをも公然と批判するほどであった。それが災いして、彼は生涯ついにその手に元帥杖を握ることはなかった。


 その狂犬ヴァンダムが「突撃!」の命令を下そうとしたまさにその時、1人の士官が慌てふためいた様子で本営に転がり込んできた。

「何事だ!」

 命令の中断を余儀なくされたヴァンダムは、不機嫌を露わにして怒鳴った。

「後方に敵影を発見。その数多数!」

「多数では分からぬ。はっきりと報告せんか!」

「全貌が見えておりませぬゆえ、正確な数は掴みかねます。しかし我が軍団に匹敵、或いは凌駕するものかと」

「我が軍団を凌駕だと……」

 ヴァンダムは唸った。

「どこの軍だ」

「申し訳ございませぬが、敵の正体は判明しておりませぬ。プロイセンの別動隊か、或いはイギリス軍の可能性も……」

「イギリス軍はネイ元帥が抑えているはずだ。あのネイ元帥が易々と敗れるとは思えぬ。ならばプロイセンか」

——それにしても1個軍団を別動隊に回す余裕があるというのか。

 各地に散らばるプロイセン軍が集結する前に撃破するつもりであったが、敵の動きは予想外に早かったのかもしれぬ。

 ヴァンダムは眉間に皺を寄せた。


「村への攻撃は中止だ。陛下に救援を求めよ。歩兵及び砲兵は反転して後方の敵を迎撃する用意をせよ。ただし前方への警戒を怠るな」

 矢継ぎ早に命令が下され、伝令の兵士があわただしく駆け回った。

 砲兵が大砲に飛びつき、数人がかりで重い砲車を反転させる。

「砲撃用意!」

 砲兵指揮官の声が響き渡った。

 砲手が大砲の射角を調整する。大砲の後ろでは別の兵士が、火縄を手に緊張した表情で構えている。

 だが、それに続く「撃て」の命令が下される直前、切迫した叫び声がそれを遮った。

「お待ちください!」

 声の主は、望遠鏡で相手の様子をうかがっていた将校であった。

「敵ではありません。あれは味方の軍旗です!」

「なんだと!」

 ヴァンダムは望遠鏡を覗き込んだ。敵と思われた軍の頭上には、確かに青・白・赤の三色旗が高々と掲げられている。

「あれは誰の軍だ」

 この遠征で軍団の指揮権を与えられている将軍はヴァンダムを除いて5人。

 うち皇帝近衛隊のドルーオ、第4軍団のジェラール、第6軍団のロバウの3人は、ヴァンダムと共にここリニーの戦場に布陣しているため後ろから現れるはずはない。

 第2軍団のレイユは、ネイと共にカトル・ブラにあるはずだ。

 そうなると残りは1人である。

「デルロンか」

 ヴァンダムは、予備軍として後方に控えているはずの、自分と歳の近い頭の禿げあがった同僚の顔を思い浮かべ、舌打ちをした。

「俺の邪魔をする者は味方であれ大砲で吹き飛ばしてやりたいところだが、そうもいかぬ」

 ヴァンダムは攻撃中止を命じ、味方が味方を撃つ悲劇はかろうじて回避された。


 短時間に2度も攻撃命令を妨げられたヴァンダムは、憤怒を満面に表して文字通り狂犬のごとくデルロンに噛みついた。

「この無能者が!ピクニックにでも来たつもりか。我々の役に立たぬのであれば、せめて邪魔をするな!」

「何を言うか、俺は皇帝陛下のご命令でここへ来たのだ」

「俺はそのような話は聞いておらぬ。貴官の聞き間違いであろう」


 実はネイがデルロンに伝令を送る直前、ナポレオンもまたデルロンに対しリニーへの出撃命令を送っていた。

 だがナポレオン直筆の指令書を抱えデルロンの下へ走ったナポレオンの副官は、指令書を開いて言葉を失った。

 そこに書かれたものが、果たして文字なのか、記号なのか、はたまた絵であるのか、どうにも判別困難だったのだ。ナポレオンは悪筆で知られ、時に自分自身でさえ読めないと揶揄されるほどだったのである。

 しばらく考え込んだ挙句、副官はかろうじて判読可能な文字から推測して、「南東」に進軍するようデルロンに伝えた。それが、ヴァンダム軍のいる方角だったのである。

 実際には、ナポレオンは「北東」への進軍を指示していたのであるが——。


 ヴァンダムに無能者と罵られたデルロンだが、公平に評するならば彼は決して無能ではなく、むしろナポレオンからの信任も厚い良将であった。この騒動に関してもデルロンに誤謬はなく、非はナポレオンやその指令を伝えた副官に求められるべきであった。

 だが、敵軍を眼前にしてこれ以上味方同士で言い争う愚は避けねばならない。

 危うく味方から撃たれそうになった挙句、いわれのない罵声を浴びせ掛けられたデルロンは、恥辱と憤怒に顔を紅潮させながらも、黙ってその場を立ち去るしかなかった。

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