第33話 迷走(2)
「奴はまだ来ぬのか」
ミシェル・ネイの顔には焦燥が滲んでいた。先ほど来、何度も腰ポケットから懐中時計を取り出しては繰り返し眺めている。
デルロンを前線に動員すべく伝令を走らせてから、優に1時間は経つ。
第1軍団が待機する場所まで馬を飛ばし、進軍速度の遅い歩兵隊を引き連れて戻って来るとしても、そろそろ姿を現していい頃である。
ところが第1軍団2万の軍勢は、遥か彼方の地平にすら姿が見当たらない。
その間にも、カトル・ブラの戦況は緊迫の度合いを増している。
ブラウンシュヴァイク公を討ったとの報にフランス軍が沸いたのもつかの間、潰走するかと思われたブラウンシュヴァイク公国軍は、程なく態勢を立て直し再び戦列に加わっていた。
加えて、敵方には続々と増援部隊が到着している。味方の援軍を待つ間に、敵がそれ以上の兵を得たのでは本末転倒である。
気が付けば空は灰色の雲に覆われている。風は生暖かな湿気をまとい、かすかに土のにおいを運んでくる。
「雨が降るか……」
雨は地面をぬかるませ、進軍を遅らせる。そうなればデルロンの到着はさらに遅くなる。
「いったい、どこで何をしておるのか」
ネイは苛立ちを込めて軍刀の
跳ね飛んだ小石の上に、雨粒がひとつ、落ちてきた。
そこへ騎兵が2騎、駆け寄ってきた。
1騎はデルロンに出撃指令を伝えるためにネイが派遣した士官である。
出発した時には1騎であったはずだ。もう1騎は何者であろうか。しかも乗っているのは軍馬ではなくロバではないのか?
そんなことより肝心の援軍の姿がない。想定外の事態にネイは
「第1軍団はいつからロバ1頭のみになったのだ?」
ネイの皮肉に、馬から降りた士官は震えるような声で答えた。
「それが、デルロン将軍にはお会いできませんでした」
「……何?」
「デルロン将軍と第1軍団が待機しているはずの場所まで行きましたが姿はなく、ただ1人この者だけが。馬がありませんでしたので、近くの農家からロバを調達して戻って参った次第です」
そう言って士官はもう1人の男のほうを見た。
その男はバツが悪そうに下を向いた。
「どういうことか、説明してもらおうか」
「私は戦争省軍務局の副局長コルネイユと申す者です。有能な官僚である私がなぜここにいるかと申しますと……」
「能書きはよい。デルロンはどうした」
「デルロン将軍は第1軍団と共にどこか東の方角へ向かわれました。私はその……腹の具合が悪くなりまして、森で用を足したりなどしておる間に……」
「勝手なことを!」
「申し訳ございません。どうしても我慢できませんでしたので……」
「デルロンのことだ!」
ネイは怒りを露わにし、デルロンの代わりに怒声を浴びたコルネイユが身を縮めた。
「直ちにデルロンを追い、奴に伝えろ。すぐさまカトル・ブラに駆け付けよと」
「ですが向かった方向からすると……」
皇帝陛下の援軍に向かったのでは、と言う前にネイの怒号が響いた。
「デルロンが戻らぬ限り、貴官らの戻る場所もないものと思え!」
有無を言わさぬ勢いに、士官は直ちに馬に飛び乗り東の方角に馬首を巡らせた。コルネイユはしばらくそれを見送っていたが、「お前もだ」とネイに睨まれ慌ててロバに飛び乗った。
「待ってください。こっちはロバなんですから」
コルネイユは全力でロバを飛ばした
*
そのデルロンは、リニーから少し離れた場所で兵の歩みを止め、思案に暮れていた。
ヴァンダムに追い返されるようにして、来た道を戻ったは良いが、この先どう動くべきであるか。皇帝の指示が分からぬのでは安易に動くこともできぬ。
やむを得ぬ。恥を忍んで皇帝へ遣いを出し、指示を仰ぐか。
そう思った時である。
「西の方角に騎影を発見!」
兵士の声を聞いてデルロンは望遠鏡を取り出し西の方角を見た。
「騎兵が2騎。——いや、なんだあれは?片方はロバではないのか?」
2騎はデルロンの前で止まった。
士官と部下であろうか。部下の方は確かにロバに乗っている。しかも軍人らしからぬ軟弱そうな男である。相当疲れているのか、息があがっている。
士官の方が馬から降りてデルロンに告げた。
「ネイ元帥からの指令です。直ちにカトル・ブラへ急行してください」
「ネイ元帥からだと。俺は皇帝陛下のご命令を受けてここへ来たのだぞ」
「存じておりますが、私はただ元帥のご命令をお伝えしたにすぎません」
士官はデルロンと視線を合わせようとしない。これ以上関わりたくないとの思いがありありと見て取れた。部下の方は今にも倒れそうな様子で話にもならない。
「ちっ」
大げさに舌打ちすると、デルロンは禿げあがって残り少なくなった髪を掻きむしった。
ここからカトル・ブラへまで、歩兵の足なら2時間程度を要する。
時はすでに夕刻である。カトル・ブラに到着する頃には日も暮れる。戦闘に加わることは望みえない。冷静に考えるなら、近くで行われているリニーの戦いに参戦すべきであるに違いない。
だが、ヴァンダムから容赦ない罵詈雑言を浴びせられ、憤懣やるかたないデルロンは、誰に向かってでもなく吐き捨てるように言った。
「来いと言われて来てみればこのざまだ。これでは戦おうにも、どこへ向かえばよいか分からぬではないか。むやみに
——主命といえども、これ以上の面倒事は御免こうむる。
最後だけは他の者に聞こえぬよう小さな声で言うと、デルロンは軍馬に飛び乗った。
「カトル・ブラへ向かう!」
軍刀を振りかざし、声高く宣言した。
空は灰色の天蓋に覆われ、強い風が雨雫を運んできた。薄暗くなった道を、2万の軍勢がカトル・ブラを目指して進軍していった。
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