第34話 スレンダー・ビリー
降り始めた雨は地表の熱を奪い、辺りはまるで季節をふた月ほど巻き戻したかのように肌寒くなった。厚い雨雲が空を覆い、いつもより早い夕暮れの足音が少しずつ近づいていた。
手にした望遠鏡で、ネイは色彩の薄れゆく東の地平に味方の影を探した。何度この景色を見たことか。先ほどから何ら変わらぬ風景がそこにあった。
ネイは大きなため息をついた。
こうしている間にも、敵方には相次いで援軍が到着している。まるで兵が湧き出てくるような、果てしなく増殖していくような錯覚を覚える。
さしもの「勇者の中の勇者」も焦燥と憂いを禁じえなかった。
望遠鏡を下ろすと横にレイユが立っていた。
「これ以上待つのは得策とは言えませんな」
「止むを得ぬ。これよりイギリス軍に総攻撃をかける」
意を決したようにネイが声を張り上げた。
「胸甲騎兵前へ!」
号令を受けて、銀色の胸甲を身に着けた騎兵隊が騎馬を進めた。
ネイが腰の軍刀を抜き、高々と振り上げる。騎兵たちもそれに倣う。天に突きあげられた無数の刃が、灰色の空を反射して鈍く光った。
「突撃!」
振り下ろした軍刀が
騎兵軍団長のケレルマンを先頭に、騎兵隊が一斉に駆ける。
馬蹄が地を打ち、湿った地表をえぐる。重く低い音が戦鼓のごとく轟いた。
幾千もの騎馬が黒い大波となってイギリス軍陣営へと押し寄せていった。
*
「ウィレム王子、敵が突撃して来ます。防御の陣形を取ってください」
突進して来るフランス軍騎馬隊を見て、イギリス軍司令官ウェリントンは傍らの若者にやや遠慮がちに話しかけた。
2人の関係は微妙である。
つい先日まで、ウィレムはウェリントンの部下であった。
ウィレムの家系は、代々ネーデルラント連邦共和国の総督を務めてきた名門だった。だが彼が幼い頃、フランスの侵攻を受けて国は滅亡、総督一家はイギリスへ亡命した。
4年前、19歳になったウィレムはイギリス軍に入隊した。そして士官としてウェリントンの下に配属され、以来、共にフランスと戦ってきたのである。
そんな縁があり、ウェリントンは「スレンダー・ビリー」と陰であだ名されるこの華奢で気の弱い若者を一人前の軍人にすべく、厳しく指導してきた。
それがこの春、ウェリントンも参加したウィーン会議により、ウィレムの祖国はネーデルラント連合王国としてフランスから独立を果たした。ウィレムの父が初代国王に即位し、ウィレムは王太子となったのである。
ただ独立国家となったとはいえ、短期間では自前の軍備をそろえる余裕もない。そのため、ウィレム率いるネーデルラント軍は、ウェリントンの指揮の下、この戦いに臨んでいるのだった。
そうとは言っても他国の王子が相手ではウェリントンも気を遣わざるを得ない。かつての部下に対し、精一杯丁寧な口調で行動を促したつもりだった。
だが、それに対するウィレムの反応はウェリントンの予想に反するものだった。
「防御など不要だ。むしろ我が方から積極的に攻めるべきだ」
「なっ……」
「こちらは援軍を得て士気が高まっている。兵力も敵と互角以上だ。僕はここで一気に攻撃を仕掛ける」
「王子、攻撃はいずれ私が機を見て全軍に命令します。単独での行動は危険です。今は自重を」
「僕はお前の命令は受けない」
「……」
これまで命令に背くどころか、自分の意見すらほとんど口にすることのなかったウィレムである。その豹変ぶりに、ウェリントンは絶句した。
「僕はネーデルラントの王子だ。今ここにいるネーデルラントの兵は皆、僕の兵だ。お前に指図はさせない」
「…‥‥ビリー、司令官は私だ」
ウェリントンは、ウィレムが部下であった頃の呼び名で呼んだ。
「戦場では1人の命令違反が全軍の崩壊を招くことさえあると、君に教えたはずだが」
「軍人になってから4年間、僕はずっとお前に命令され続けてきた。屈辱だったが、お前は半島戦争の英雄。こっちは肩身の狭い亡命者だ。黙って従うしかなかった——」
ウィレムの唇が震えていた。
ウェリントンは言葉を失った。従順だと思ってきたウィレムが、これほど鬱積した感情を抱いているとは想像だにしていなかった。
「僕はもう亡命者じゃない。屈辱に耐え続ける日々は終わったんだ!」
叫ぶように言うと、ウィレムは後ろを振り返り、麾下の部隊に向かって声を張り上げた。
「戦列歩兵!銃剣を装着せよ!」
言うが早いか、ウィレムは馬に飛び乗り、馬腹を蹴った。兵士たちが慌てて銃剣を取り付け後を追う。
止める間もなかった。
ネーデルラント軍はフランス軍に向かって突き進んでいった。
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