第35話 静夜
ネーデルラント、フランス両軍は、戦場の真中で激しくぶつかり合った。
ネーデルラント軍は数において相手に勝る。だがその司令官は、戦場で自ら指揮を執るのは初めてという未熟な若者である。
それに対し、フランス軍騎兵軍団長のケレルマンは、20年以上に渡り数々の激戦を戦い抜いてきた宿将であった。
機動力を活かした巧みな動きで右へ左へと相手を翻弄し、陣形を突き崩していく。ネーデルラント兵はたちまち、ただ逃げまどうだけの烏合の衆と化した。
言わぬことではない。ウェリントンは唇を噛んだ。
だが自業自得とはいえ、味方を見捨てる訳にもいかない。ひとつ大きなため息をつくと、栗毛の愛馬コペンハーゲンの背に飛び乗った。
向かう先には深黒の軍服を身にまとった兵団がいる。シュヴァルツェ・シャールである。
主君ブラウンシュヴァイク公ヴィルヘルムを亡くした彼らではあるが、後を引き継いだオルファーマンの、主君の魂が乗り移ったかのような強い統率力により、短時間で態勢を立て直し戦列へ復帰していた。
主君の仇を討とうと、むしろ士気は高い。騎兵1000騎をはじめ、兵力の大半はいまだ健在である。
小雨に煙る灰色の景色の中を、黒い兵団は怒涛のごとく進撃していった。
長い
敵の隊列が乱れたところに、サーベルを振りかざした軽騎兵がなだれ込み、敵兵と激しく斬り結ぶ。
首元をかき切られた兵士が鮮血を噴き上げて地上に落ち、血煙が雨と共に地上に降り注いだ。
さらにそこへ整然と隊列を組んだ戦列歩兵が突入し、混乱する敵に銃剣を突き立てる。
男たちの怒号と悲鳴、馬のいななき、銃声、金属同士がぶつかり合う音。様々な音が混成され、血塗られた奇想曲を戦場に奏でる。
「退け!」
ケレルマンが叫び、フランス騎兵が次々と馬を返した。その背中を、黒い影たちが追う。
「待て、追うな」
オルファーマンが影を制した。
「陽は沈んだ。深追いは無用だ」
戦いに没頭していた兵士らは、ここでようやく戦場が闇に溶け始めていることに気付いた。
長かった1日が終わる。そう思うと彼らはどっと疲れを感じた。それはフランス軍も同様だった。両軍は、どちらからともなく兵を引き始め、やがて辺りは夜の静寂の中に落ちていった。
*
この日、両軍ともに4000人以上の死傷者を出したカトル・ブラの戦いは、双方とも決定的な勝利をつかめぬまま、煮え切らぬ幕引きを迎えた。
戦略的に重要なこの拠点を、ネイは奪うことができなかった。しかし守り切ったウェリントンも、それ以上に失ったものが大きかった。
彼の軍がこの地に足止めをされている間に、リニーではブリュッヒャー率いるプロイセン軍が、ナポレオンに敗北を喫していたのである。プロイセン軍は敗走し、闇の中へ姿を消していた。
イギリス軍とプロイセン軍の連携を断つことがナポレオンの狙いであったことを考えれば、この日行われた2つの戦いは、総体としてナポレオンの勝利であったと言えるであろう。
ところで、この日の戦いで唯一全く損害を受けなかった軍が存在する。デルロン軍である。
カトル・ブラに向かったデルロン軍は日没と雨のため進軍が遅れた。戦場にたどり着いた時、両軍はすでに撤兵を完了した後であった。
結局この日、デルロンの第1軍団2万人は、終始戦闘に加わることのないまま、2つの戦場の間をただ
*
プロイセンを打ち破ったその夜遅く、リニー近郊の町にある小さな宿屋の一室で、ナポレオンはひとりワイングラスを傾けていた。
揺れ動く蝋燭の灯りの中で、彼はなぜか浮かない顔をしていた。
「兵士たちは今日の勝利に歓喜し、私を英雄と呼んでいた」
他に誰もいない部屋でナポレオンは独り
ナポレオンの横顔を稲妻が照らし出した。夕刻から降り始めた雨は、夜には激しい雷雨となり、戦場に斃れた者たちの血を洗い流していた。
「だが彼らのうち何人が、この先も私を英雄と呼び続けるだろうか」
低く呻くような雷鳴が、部屋の窓をかすかに震わせた。
重い空気をまとった1815年6月16日の夜が更けていった。
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