幕間

第36話 ロンドン、6月17日

 窓の外に見えるプラタナスの街路樹が、強い風にあおられ緑の葉を揺らす。東の空の太陽は、鉛色の雲の向こうにその姿を隠している。


 窓に打ちつける雨粒が窓ガラスを斜めにつたって落ちていくのを、男は椅子に座ったまま目で追う。それが窓から消えると、別の雨粒をまた追う。

 やがてそれに飽きたのか、男はマホガニー製の重厚なデスクの引き出しを開け、シガーケースを取り出した。吸い口を切り葉巻に火を付け、煙を口に含む。

 ゆっくりと煙をはき出した後、椅子から立ち上がり、窓の外を眺める。

 降りしきる雨の中、馬に乗って石畳を走って来る若者の姿が見えた。男は軽く微笑むと、革張りの椅子にどっしりと腰を落とした。


 程なく、ドアをノックする音がして、ずぶ濡れの若者が部屋に飛び込んできた。長い距離を駆けて来たのか、肩で息をしている。


「随分降られたようだな」

 男は笑って言った。ドイツ語なまりの強い英語だった。

「はい……、雨の中を港から駆けてきたものですから」

 呼吸を整えながら、若者は濡れた上着を脱いで、部屋の隅のコートハンガーに掛けた。

市場しじょうが開く前に着いたのはさすがだ」

 男は立ち上がると、また窓の外を覗いた。

 窓からは、ロンドンの金融街を象徴するイングランド銀行や証券取引所の建物が見える。


「それでどうだね、状況は」

 男の問いに、若者は部屋の扉がしっかりと閉ざされていることを確認してから答えた。

「昨日の戦いでプロイセンはナポレオンに敗れましたが、イギリス軍は持ちこたえました。決着はまだ着いていません」

「すると今日はまだ動けんな。君にはもう少し情報収集を続けてもらうことになる」

「はい、パリとは常に連絡を取り合っています」

「ロンドンとパリの両方に拠点を持っているのが、我々の強みだ」

 男の視線は、証券取引所の入口に向けられている。

「じきにシティ中から銀行家たちが集まりだす。彼らの話題はもっぱら海の向こうで行われている戦争のことだ」

 男は振り返り、若者に椅子に座るよう促し、自分も応接の椅子に腰を下ろした。


「ナポレオンが兵を動かしたことは彼らの耳にも入っている。だが勝敗の行方はまだ誰も知らない。彼らの情報源は所詮、新聞と出所の不明な噂話だけだ」

「大陸から直接情報を仕入れている我々とは勝負になりませんね」

「我が民族は受難の末、世界中に拡散した。かえってそれが、今では我々の利点になっている。世界中の同胞から正確な情報を素早く集めることができるのだからね」

「情報こそが我々の収益源ですね」

 若者の顔は誇らしげだ。

「だがね、ただ早く情報を得るだけではすぐに追いつかれる。連中は我々の行動を常に監視しているからね。情報を金に換えるためには、ここを使う必要があるのだよ」

 男は自分の頭を指先でトントンと叩いた。

「どんな方法ですか」

「それは言えない。まあ、見ていてくれたまえ。このために私は時間をかけてイギリス、フランス双方に種を仕込んできたのだからね」

 そう言って、右手に持った葉巻を口元へ運ぶ。


「いずれにしても、先が読めなければ読めないほど、我々のチャンスは大きくなる。ウェリントン公とナポレオンには、せいぜい競り合ってもらいたいものだな」

 白い煙をくゆらせながら、男はにんまりと不敵な笑みを浮かべた。

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