第3章 ワーテルロー

第37話 ワーテルローへ

 短い夜が明けた。

 カトル・ブラには、傷つき斃れた者や、破壊された大砲がそこかしこに打ち捨てられ、昨日の戦闘の激しさを物語っている。

 死者を弔うかのように細い雨がそれらを無言で包み込む。


 生き残った者たちも、物憂い気分に浸ってばかりはいられなかった。

 リニーでプロイセン軍とフランス軍との戦闘を偵察していたイギリス軍の部隊から、早朝、重大な報告がもたらされたのである。


 ウェリントンの本営には主だった将校が招集され、緊張した顔を並べていた。

「昨日、リニーにおいてプロイセンはナポレオンに敗れた」

 ウェリントンの言葉に、集まった将校の間に衝撃が走った。

 さらに追い打ちをかけるようにウェリントンが続けた。

「退却中にブリュッヒャー殿が負傷なされたそうだ」

「ブリュッヒャー元帥が……」

 友軍の総司令官が負傷したとの情報に、一同は騒然となった。

「ご無事なのですか」

「それについては明確な情報がない。プロイセン軍の中でも情報が錯綜しているようだ。ただ、今はグナイゼナウ参謀長が司令官代理を務めておられるとのことだ」

「それでプロイセン軍は今どこに?」

 こわ張った声で問うたのは、第2軍団長のローランド・ヒル中将である。

「情報によると、現在はワーヴル付近にいるようだ」

 机の上に広げた地図を指しながらウェリントンが告げると、将校の間にざわめきが起きた。

 ワーヴルはリニーから15マイル(約24キロメートル)も北にある町だ。それほどの距離を後退したのは、プロイセン軍の受けた打撃の大きさを物語るものではないだろうか。


「しかし、これではあまりに敵から離れすぎている。もしや……」

 ヒルは眉間にしわを寄せた。

「彼らはこのまま本国に撤退するつもりではないでしょうな」

「ならば我らも撤退の準備を!プロイセンが撤退して我らのみでナポレオンを相手にするなど無謀だ」

 師団長のピクトン中将が怒声を響かせた。イギリス軍の中でも気性の荒いことで知られる男である。

「その必要はない」

 ウェリントンはきっぱりと断言した。

「何故です?」

「ブリュッヒャー殿は義理堅いお人だ。我々を見捨てるような事はなさらない」

「だが今指揮を執っておられるのはグナイゼナウ参謀長だ。かの人のお人柄は存ぜぬが、前進元帥ほど真っすぐな性格ではありますまい」


 ピクトンは普段から声が大きい。堂々たる体躯から発せられる声は、20本のトランペットを同時に吹き鳴らした音量に匹敵すると形容されるほどである。


 本営の外まで響く大声に対し、ウェリントンは落ち着いた声で答えた。

「私は信じたいのだ」

「は?」

「昨日の朝、ブリュッヒャー殿は、我々の援護に駆けつけると言ってくだされた。冗談のように言っておられたが、あの目は本気だ。私はあのお方の言葉を信じたい。そして、グナイゼナウ殿もその思いを継いでおられると信じたい」

「ふん、信じる信じないは閣下のご自由だ。ですが閣下のご判断に幾万の将兵の命が懸かっていることをお忘れめさるな」

「それは承知している。だが……」

 ウェリントンは何かを考え込むように目を伏せた。

 しばらくして目を開けると、きっぱりとした口調で言った。

「彼らは必ず我々の危機を救いにやって来てくれるだろう。それまで我々も戦い抜かねばならない」

「ナポレオンに敗れたのですぞ。プロイセンは来ぬ。来るはずがない」

 ピクトンは不服そうに腕を組んで、横を向き黙り込んだ。


 気まずい空気の中、ヒルが口を開いた。

「分かりました。元帥閣下がそうおっしゃるのなら、私も信じましょう。ですが援軍を迎えようにも、今のままではプロイセン軍と距離がありすぎます」

「その通りだ。そこで我々も陣を移動する」

 ウェリントンは地図の上で、指をカトル・ブラから北へと滑らせた。

 その指が止まったのは、カトル・ブラの戦いの前夜、ブリュッセルのリッチモンド公爵邸でウェリントンが公爵に指し示して見せた、まさにその場所であった。

「ワーテルロー……だと」

 ピクトンが眉をひそめた。

「ワーヴルから9マイル(約14キロメートル)ほど西にある村だ。この地でナポレオンを迎え撃つ」

「昨日あれだけの犠牲を払ってカトル・ブラを死守したのですぞ。それを放棄するとおっしゃるのか!」

「ナポレオンがエルバ島から戻って以降、私は奴の進軍ルートを何通りか想定し、それぞれに決戦場所を想定した。その1つがワーテルローだ。すでに現地も視察し、その地形を利用した戦術も考えてある」

「敵が攻めてくる前から、そこまで準備をしておられたと……」

 その周到ぶりにピクトンも言葉を失った。

 ウェリントンはその卓越した洞察力により、戦う前からナポレオンに先んじていたのである。

「ワーテルローに向かう。ワーヴルのプロイセン軍にも伝えてくれ!」


 折しも雨が激しさを増し、兵士たちの頭上に滝のごとく降り注いだ。夕暮れのように暗い空を時折、稲光が青白く照らし出す。

 川のようになった街道を、兵士が、馬が、大砲が、列をなしてゆっくりと進んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る