第38話 決戦の朝~フランス軍~

 昨日の嵐が嘘のように、今朝は吸い込まれそうなほどの青天が広がり、雨上がりの田園を穏やかな風が駆け抜ける。曙光が水滴に反射し、光のさざ波を描き出す。所々に建つ粉挽き用の風車が、風を受けてゆっくりと回っている。


 早朝の肌寒さにミシェル・ネイは軽く身震いをした。

 ワーテルローの南にある丘陵地帯。

 その中でもひときわ高い丘の上に立ち、ネイは目を細めた。

 左右の丘は、見渡す限り武装した男たちで埋め尽くされている。

 マスケットの先に銃剣を装着した歩兵部隊。大砲の手入れに余念がない砲兵部隊。そして精悍な軍馬の上では、カービン銃を背中に担いだ騎兵部隊が、腰のサーベルを鳴らす。


「一昨日の雪辱戦ですな。今日こそウェリントンを蹴散らしてやります」

 鼻息も荒く語りかけてきたのは、レイユである。

 カトル・ブラでイギリス軍と一戦を交えたのは、一昨日のことだった。

 翌日、再戦を図るべく攻め寄せたフランス軍が見たのは、もぬけの殻となった敵陣と、激しい雷雨の中、はるか北方を征くイギリス軍の背中だった。

 ぬかるみに足を取られながら後を追い、この丘にたどり着いたのが昨日の夕刻であった。


 レイユに力強く頷き、ネイはさらに傍らの男に声を掛ける。

「この前のような失態は、もう許されぬぞ」

「分かっております。今日は2倍の働きをいたします」

 神妙な面持ちで答えたのは、カトル・ブラとリニーの間を迷走し、戦闘に加わり損ねたデルロンである。

「先日のお前の働きはゼロだ。ゼロは2倍してもゼロだぞ」

 ネイの冗談にデルロンは顔を赤くして俯いた。


 デルロンの第1軍団が右翼(東側)を、レイユの第2軍団が左翼(西側)を固めている。

 両者の間にはロバウの第6軍団が陣取る。

 一昨日はナポレオンと共にリニーの戦いに加わっていたが、これといった活躍の場もなかった。今日こそは手柄を立てんと気勢を上げている。

 そしてその後方には、黄金の糸でGARDE IMPERIALEガルド・アンペリアルの文字が刺繍された三色旗が、誇らしげに燦然とはためく。

 この旗を掲げるのは、ヨーロッパ最強との呼び声も高い皇帝近衛隊である。

 戦闘能力、勇気、皇帝への忠誠心、いずれにおいても申し分のない者だけが入隊を許される。まさに選び抜かれた精鋭部隊であった。

 総勢7万2000人のフランス兵が、東西数キロメートルに渡り重厚な陣を布いている。

 その壮観な光景には、大軍を見慣れているネイでさえ感嘆のため息を禁じえなかった。


 ひとしきり自軍の壮麗な雄姿に見惚れた後、ネイは北の方角に視線を転じた。

 眼下には、田園風景の中央を貫くように太い街道が走る。シャルルロワから北上し、カトル・ブラ、ワーテルローを経て、その先はブリュッセルにまで至る街道である。両脇に街路樹の植えられた道は、緩やかに波打ちながら北へ伸び、その先で一段大きくせり上がる。モン・サン・ジャンと呼ばれる小高い丘があるのだ。

 その頂上付近に太く横に長い影が見える。望遠鏡を覗き込むと、赤い制服を着た兵士が並んでいるのが見える。イギリス兵である。

 フランス軍のいる南の丘からイギリス軍のいる北の丘まで、距離にして1.5キロメートルほどであろうか。

 2つの丘に挟まれたさほど広くもないこの場所が、まもなくヨーロッパの運命を決する戦いの場となるのだ。


「ウェリントンめ、弾の飛ぶ距離を計算しておるな」

 ネイは望遠鏡を目から離し、忌々いまいましげにつぶやいた。

「どうした、ネイ?」

 後ろから声を掛けられた。顔を見なくても声の主は分かる。この軍の中で、敬称を付けずにネイの名を呼ぶのはただ1人、皇帝ナポレオンだけである。

 振り返るとナポレオンの姿は芦毛の愛馬マレンゴの上にあった。

「イギリス軍は大砲の弾の届かぬ丘の陰に身を隠しております。半島戦争で我が軍はこのウェリントンの戦術に苦しめられました。十分に警戒せねばなりません」

「何度も同じ手を使うとは、進歩のない奴だ」

「その同じ手に我々は何度も痛い目に遭ってきたのです」

「心配するな。私には策がある。土に隠れたモグラどもをおびき出す策がな」

 マレンゴの背に乗ったまま、ナポレオンはその策を語った。 


「——素晴らしい作戦ですが、あのウェリントンがどこまで乗ってくるか」

 ネイは腕を組んだ。

「ネイ元帥は随分とウェリントンを高く評価されるのですな」

 口を挟んできたのはスールトであった。影のごとく、常にナポレオンの傍らに付き添っている。それだけでなく、あれこれと細かく口を出す。総参謀長という立場上やむを得ない部分はあるものの、スールトの発する言葉がナポレオンの意思なのか、スールト自身の意思なのか判然としないことも多く、現場には混乱と反感が生じていた。

「ウェリントンなど無能ですよ。死守した拠点をむざむざ放棄するほどのね」

 スールトはせせら笑った。ナポレオンもそれに同調した。

「スールトの言う通りだ。ウェリントンなど朝食を食らいながらでも片づけてくれよう」

 言葉は強気だったが、その表情には確信と不安が入り混じっているようにネイには見えた。

「11時30分に攻撃を開始する。それまでに滞りなく準備を整えよ」

 ナポレオンは彼が本営を置くル・カイユー農場へと馬首を翻した。スールトもそれに続いた。


「ウェリントンが無能ならば、カトル・ブラで俺が苦戦することもなかったはずだがな」

 前線に残ったネイは、ひとり北のモン・サン・ジャンの丘を見つめて呟いた。

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