第39話 決戦の朝~イギリス軍~

 丘から見下ろす斜面には、黄金色に輝く麦の穂や、緑の葉を広げるビートなど、様々に色の異なる畑が重なり合い、パッチワークのように一面に広がっている。

 この時期は麦の収穫期にあたり、所々に点在する小さな村々では農民たちが忙しく農作業に追われているはずだった。


 しかしこの2・3日、彼らは突如としてこの地域を埋め尽くした総勢10数万の大軍の「おもてなし」に奔走していた。

 決して歓迎はしていない。だが怒りを買えばどんな目に合うか分からない。恩を売っておけば、それなりの見返りも期待できるというものである。ただ畑を荒らされるのは困る。戦闘は別の場所でやってほしい、というのが農民たちの本音であった。


 不幸にして戦場に選ばれてしまった地域では、村人たちは巻き添えを恐れて逃げ出してしまい、村はもぬけの殻である。人気ひとけの消えた村では、代わって軍服を着た男たちが我が物顔で農家の倉庫から食糧を漁った。

 フランス軍、イギリス軍ともに略奪は禁止している。されど食料確保は軍にとって大きな課題であり、脅しや暴力を伴わないのであれば、放棄された食料に手を出すことは黙認していたのである。

「どのみち戦闘が終わる頃には、灰になるか、崩れた家の下敷きになっているさ」

 兵士たちはそう言い合っては後ろめたさを誤魔化したのであった。



 ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーは、愛馬コペンハーゲンの背に乗り、モン・サン・ジャンの丘に立っている。

 端正な色白の顔があかく色付いて見えるのは、東の空を染める朝焼けのせいだけではないだろう。彼ほどの経験豊富な名将であっても、戦いを前にして胸の鼓動が早くなるのを抑えることはできないのだ。

 視線の先で大地は黒く染まっている。地を覆うほどの軍勢が、視界の端から端までを埋め尽くさんばかりに展開しているのだ。

 そしてあの中に、不死鳥のように蘇った皇帝ナポレオンがいるのである。


「まったく、信じられんな。ほんの数カ月前まで奴は国を追われた落魄らくはくの身だったというのに」

 ウェリントンは傍らのローランド・ヒル中将に話しかけた。

「敵ながら、大した手腕と精神力ですな」

 ヒルの口調は、まるでナポレオンを称賛するようであったが、ウェリントンは咎めなかった。

 戦いに勝つためには、相手の実力を正当に評価することが必要不可欠だ。敵意のあまり相手を過小評価し、敗れていった者は歴史上枚挙にいとまがない。

 ウェリントン自身、ナポレオンの実力は高く評価している。

「見たところ、敵の数は我が軍をわずかながら上回っている。今日は厳しい戦いになると覚悟してほしい」

 そう言って周囲に目を遣る。

 彼の傍には、イギリス軍の軍団長、師団長らが馬を並べている。これから始まる決戦に向けた最後の作戦会議のために集まっているのだ。

 一昨日のカトル・ブラの戦いでウェリントンに反抗し、危ういところをどうにか救われたウィレムの姿もそこにある。痛い目に遭ってさすがに反省したのか、今日は神妙な面持ちで話に耳を傾けている。


「今日の戦いにおける最も重要なポイントはあそこだ」

 ウェリントンが指した方向に、皆が一斉に視線を向けた。

「ウーグモン農場ですな」

「そうだ。敵陣に最も近い我が軍の最前線基地だ。敵の進軍をくい止める要塞となるのはもちろんだが、敵陣への射程内にあるため攻撃の拠点にもなる」

「逆に言えば、敵から真っ先に狙われるということですね」

「その通りだ」

 ヒルの指摘に、ウェリントンが頷いた。

「ビリー、ウーグモンを守るのは君の部隊だ。最後まで守り抜いてくれ」

 ウーグモンにはウィレムの第1軍団から派遣された部隊が駐留している。

 愛称で呼ばれ、ウィレムはびくっとしたように体を震わせた。あの一件以来、ウェリントンは上下のけじめをつけるため、戦場ではウィレムを王子とは呼ばないことにしている。

「承知しております」

 ウィレムは硬い表情で答えた。

「せいぜい敵の目を引きつけておいてもらおうか。その間に我が部隊が敵陣を陥とす」

 チューバのような低音は、巨漢トーマス・ピクトン中将の声である。

「我が師団の前にいるのは、あのデルロンだというではないか。右も左も分からぬ迷子の軍など軽く蹴散らしてくれるわ」

 「あの」を強調しながら、ピクトンが哄笑した。一昨日のデルロンの醜態は、イギリス陣営の耳にも届いている。

「油断は禁物だ」

 ピクトンの豪語をウェリントンが諫めた。

「先ほども言った通り兵力では敵が上回る。プロイセン軍が到着するまでは無闇に動かず防御に徹してほしい」

「だからプロイセン軍など来ぬと昨日言ったでは——」

「敵軍、攻撃開始しました!」

 昨日の議論が蒸し返されるのを押しとどめるかのように兵士の1人が叫んだ。

 フランス軍陣地にいくつもの砲煙が上がっている。ほどなくして、ウーグモン農場の周辺に砲弾が降り注ぎ、火柱や土煙が高く昇った。

「全員、持ち場へつけ!」

 ウェリントンの号令とともに、司令官らは一斉に散っていった。


 1815年6月18日、ヨーロッパの運命を掛けた戦いの幕が上がった。

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