第40話 ウーグモン農場の戦い(1)

 6月、太陽は1年で最も高く天に昇る。

 それは1日中雨が降り続いた昨日の鬱憤を晴らすかのように、南の空高くから燦燦さんさんと照り付けている。


 ワーテルローの南に広がる田園の中には、農場主の広い屋敷が点在している。中でもひときわ壮大な邸宅が、戦場の西部に建つウーグモン農場であった。

 ウーグモンという名は「高い山」を意味する古い言葉に由来する。その地は、実際には山と呼ぶには物足りない高さではあるものの、これから戦場となるであろう付近一帯を見渡せる見晴らしの良い場所であり、戦いの拠点とするには好都合であった。


 開戦に先立ちイギリス軍がこの屋敷を接収しようとしたとき、屋敷の主人である老紳士は気丈にも一度は断った。戦いの拠点となれば無残に破壊されることは明らかだったからだ。生まれた時からそこに住み、亡くなった妻との思い出も詰まった屋敷を瓦礫の山にされたくはなかった。

 だが腰にサーベルを携えた屈強な男たちにとり囲まれ、目の前に札束を積まれた老人は、しぶしぶながら接収を受け入れたのであった。


 そのウーグモン農場を、ネイは張り詰めた表情で見つめていた。

 勇者の中の勇者と呼ばれる自分だが、決して死が怖くないわけではない。ロシアからのあの絶望的な撤退戦の時、腹の底から湧き出してくる恐怖と必死に戦っていたことを他の者は知らないだろう。だが戦場で戦う者にも、平穏に暮らす者にも、いずれ死は訪れる。ならば自分は戦って死ぬことを選ぶ、とネイは思う。

 それでも戦いの前には、死への恐怖とは別の理由で、いつも全身が強張るような感覚を覚える。



 元帥の地位に昇ったばかりの頃、部下がネイに言ったことがある。

「自分の采配ひとつで大勢の兵が動くのはさぞかし気分が良いでしょうな」

 それは嫌味ではなく、むしろ憧れを込めた言葉のようだった。

 気分など良くはない、とネイは答えた。

「怖いのだ」

「怖い?閣下ほどの勇敢なお方が何を恐れると?」

「俺が右手を一振りするだけで数万の大軍が動く。俺がわずかに判断を誤るだけで、彼らは無残なむくろを野に晒すことになる。顔も知らぬ彼らだが、その1人1人に親や妻や子供がいる。数万の兵の死は、数十万の悲しみを生む」

「戦に犠牲は付き物。軍を率いるお方がそのような事まで気になさいますな」

「分かっている。それは考えてはならぬことだ。考えればその重圧に耐えられなくなる。それでも時折、頭の片隅にその考えがよぎる」

「そういうものですかな」

 ネイの言葉に部下は気を削がれたようだった。



 あれから10年以上の月日が過ぎた。その思いは今も消えることがない。

 あの時の部下はもういない。戦いで命を落としたのだ。どの戦いであったか、覚えていない。覚えきれないほどの部下をネイは戦いで失ってきた。

 同時に、ネイは皇帝の胸中を想った。自分より遥かに重い荷を背負う皇帝は、いま何を思っているのだろうか。


 強い風がネイの脳裏からその考えを吹き飛ばした。

 すでに兵士たちは戦闘の準備を整え、無言で開戦の時を待っている。砲弾が込められた大砲は、その全てが砲口をウーグモン農場に向けている。

 ネイは軍服のポケットから懐中時計を取り出した。午前11時30分。

 深く息を吸い込む。一瞬、周囲から全ての音が消えた。


「——撃て!」

 ネイの声が戦場に響いた。

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