第23話 逡巡

 碧空に遠雷が轟いた。


 そう思ったのは一瞬だった。それが軍人にとって耳慣れた音であることに気づくのに時間はかからなかった。

 それは東の方角、プロイセン軍を追ってナポレオン本隊が向かった先から聞こえてくる。


「あちらは戦闘が始まりましたな」

 いつの間にかネイの傍らにレイユが立っていた。彼はこの戦いで第2軍団長を務めている。

「迷っておられるのですか」

 口調は穏やかだが、その裏には早急に指示を出すよう求める強い意思がこもっている。

 待機する2万の将兵のうち、元帥の無為を諫められるのは軍団長である自分だけであることを、レイユは自覚していた。


「レイユ、皇帝陛下はやはり俺のことを信用してはおられぬ」

「フォンテーヌブローでの事なら気になさいますな。この戦いで手柄を上げればよいだけのことではありませぬか」

「違う、陛下は俺の心の中を見抜いておられる」

「心の中とは……」

 意味するところを読み切れず、レイユは言いよどんだ。

「俺には迷いがある。」

「迷い?」

 レイユの目に警戒の色が浮かんだ。

「このまま陛下が我が忠誠を受け入れぬとしても、虚しくお仕えし続けるべきか。それとも——」

「それ以上おっしゃいますな」

 レイユの口調が厳しさを含んだ。

「もう一度、ルイ国王の下へ馳せ参じるか。その場合には——」

 ネイは椅子から立ち上がり、手にした軍刀の柄を強く握ると、一気に鞘から引き抜いた。鋭利な刃の先から、冷たい金属音がほとばしった。

「皇帝を討ち、国王陛下への忠誠の証とせねばなるまい」

「謀反人になるおつもりか!」

 レイユは身を固くして、腰に吊るした軍刀に手を伸ばした。


「1年前の春、俺は皇帝に退位を迫り、その後ブルボン家の家臣となって忠誠を誓った。ルイ国王陛下は、俺を貴族として遇してくださった」

「——ネイ元帥、あなたを皇帝陛下への反逆の罪で捕縛する!」

 レイユは軍刀を抜き去り構えつつ、小屋の外に控えている兵士を呼ぼうとした。


「まあ、待て」

 それを軽く制し、一呼吸すると、ネイは落ち着いた表情でゆっくりと刀を下した。

「俺が仕えた国王ルイ18世は、かつてフランスを空前の繁栄へと導いた偉大なる太陽王ルイ14世の血筋を引くという以外に、なんら取り柄のない男だった」


——革命勃発により国外に逃亡したルイ18世は、外国の支援を頼って各国を渡り歩くほかになす術を持たなかった。

 彼が玉座に就いたのも、彼自身の力ではなく、ナポレオンを倒した諸外国の軍事力と、かのウィーン会議にフランス代表として参加した辣腕政治家タレーランの巧みな交渉術の賜物でしかない。


「そんな国王に外国と戦火を交える気などあるはずもない。国王にとって軍隊は国を守るものではなく、もっぱら王政復古に反発する民衆を抑え込むための道具だった。兵士の多くは平民だ。その彼らが民衆に銃を向けねばならないのだからな。士気は低下し、軍紀が乱れるのは当然だった」


——さらに軍の内部では、市民階級出身の革命派将校が追放され、代わって亡命先から帰国した貴族が将校に任命された。

 彼らは満足な軍事知識を持たなかったが、プライドだけは高く、しばしば古参の兵士の進言を退けては彼らの不評を買っていた。


「俺も元は平民だ。俺の親父は田舎の樽職人で家は貧しかった。親父は俺を役人にしたがった。俺も一旦はその道を選んだ。だが田舎の役人生活など退屈なものだ。このまま一生を過ごすのかと思うと耐えられなくなってな、家を飛び出して軍隊に入ったんだ。国王が俺を貴族にした後も、そんな出自の俺を他の貴族どもは平民貴族と呼んで露骨に蔑んだ」

 ネイは長いため息を吐いた。

「あの日、オーセールの街で皇帝陛下の背後に並んだ兵士たちは皆、満ち足りた顔つきをしていた。平民である彼らが、陛下を心から敬慕している表情だった」


 東の空に響く砲声が激しさを増した。


「見ろ」

 ネイは胸の前で左手のこぶしを握りしめて見せた。その手首にはブレスレットが銀の光を放っていた。

「陛下からいただいたものだ。俺と陛下が出会った証だと言ってな」

 ゆっくりと、ネイは軍刀を鞘に納めた。


「あの時、陛下は俺が必要だと言ってくださった。あの出会いがなければ、今の俺はない。俺にもやはり陛下が必要なのだ。だが俺の裏切りを、陛下はまだ完全には許してくださっていない。陛下の信頼を取り戻し、再び俺を必要としていただくには、我が行動で示すより他にない——」

 ネイのまなじりに力が入った。

「レイユ!」

「はっ!」

「これよりカトル・ブラに総攻撃をかける。敵はあのウェリントンだ。心してかかれ」

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