第22話 出会い

 兵士たちの噂話をよそに、ネイは街道沿いの小屋でひとり椅子に座り、俯き目を閉じて思案に沈んでいた。


 昨晩、ネイはナポレオンの部屋に呼ばれた。

 そこは、シャルルロワに駐屯する司令官が起居するために作られた部屋であった。軍事施設らしく、実用性を重視して華美な装飾を排した無機質な造りである。

 晩とはいっても、日没の遅いこの地方では、夕日がまだ名残惜しそうに地平線の上に姿をとどめていた。

 西向きの窓から入る夕陽を背にしてナポレオンは座っていた。

 茜色に染まった窓に浮かぶシルエットからは、その表情を窺うことはできなかった。


「明朝、私は本隊を率いてプロイセン軍を追う。お前は別動隊を率いてカトル・ブラへ進撃せよ。昼には攻撃を開始する」

 前置きもなく、ナポレオンは言った。

「御意」

 短く、ネイは答えた。

 それきり2人は黙った。沈黙が部屋を満たし、外へ溢れ出るかと思われた頃、呻くような声でネイが言った。

「いつになれば私は許されるのですか」

 夕陽の中で影が小さく揺れた。しかし影が言葉を発することはなかった。



——皇帝陛下は、俺と距離を置こうとしている。


 広くもない小屋の中、ネイは胸の内で独白した。


——陛下がエルバ島から戻られて以来、俺は陛下のお傍にあろうとした。だが俺に任されたのは辺境での兵営建設だった。それとて重要な任務には違いないが、パリから遠く離れた場所にあって、陛下とお会いする機会はほとんどなかった。

 フォンテーヌブローで退位を迫まり、一度はブルボン家に走った俺を、やはり陛下は許せないのだろう。一度生じた亀裂は永遠に修復しえぬのだろうか。


 ネイは自分の右手が無意識のうちに左手首を強くつかんでいることに気づいてはっとした。

 その刹那、ネイの脳裏には20年ほど前のある日の出来事が浮かび上がった。


   *


 当時20代半ばのネイは、フランス革命政府軍の騎兵連隊長の地位にあったが、軍内ではまだ無名の存在だった。

 戦闘中に負った怪我により部隊を離れ、療養のために入院していたパリの軍病院を退院したその日のことである。

 病院の出入口の石階段を降りようとしたところで、下に1人の男がいることに気付いた。誰かを待っているようだった。

 その男の顔に見覚えはなかった。

 だが、光り輝くほどに真新しい准将の制服に身を包み、真っすぐに背筋を伸ばした悠然たる佇まいは、明らかに余人にはない威風に満ちていた。

 ネイは、一目でその男がナポレオンであると直感した。


 その頃、ナポレオンはトゥーロンで王党派の反乱を鎮圧した若き英雄として盛名を得ていた。

 年齢はほぼ同じながら、大佐であるネイより一階級上であった。

 ナポレオンが階段を上ってきた。そして、脇に寄って敬礼するネイの前で立ち止まった。


「貴官がミシェル・ネイ大佐か」

「そうでありますが……」

 初対面であるにもかかわらず、なぜ名前を知っているのか。驚いて言葉を失ったネイに、ナポレオンは事もなげに言った。

「貴官の噂は聞いている。あまりに無謀な突撃に兵が付いて行けず、ひとり敵陣に孤立して左肩に銃弾を浴びた赤毛の大佐がいるとな」

 ネイは思わず左肩を押さえた。戦闘で得た傷はいまだ癒えておらず、肩には包帯が痛々しく巻かれている。

「勇敢な大佐殿に聞く。貴官は何のために戦っている?」

 唐突な質問に、ネイは戸惑った。

「我が偉大な祖国フランスのためであります」

「フランスのためなら死ねるか」

「喜んで命を捧げます」

「死ぬな」

「え」

 思いもしない言葉に、思わず声がうわずった。

「命を捧げるほどの価値は、今のフランスにはない。だが今に俺がこの国を偉大にする。命を懸けて守る価値のある国にな」

 軍人として国家に仕える者であれば到底口に出せぬような事を、ナポレオンは平然と言ってのけた。

「そのためには、お前のような無謀な馬鹿者が必要だ。だからそれまでは死ぬな」

 ナポレオンのグレーの瞳を、ネイは唖然として見つめた。宇宙を閉じ込めたような深い瞳だ。見ていると吸い込まれそうな錯覚を覚える。

「まさか政府を倒す気なのですか」

「だとしたらどうだ」


──この男は自分の言っていることが分かっているのか?官憲に聞かれたら……

「国家反逆罪で断頭台送りだ」

「なっ?」

「お前の考えていることなど分かる。なんなら貴官が俺を捕らえてもよいのだぞ」

 その声は笑っていたが、目は挑むような激しい光を湛えていた。この男は危険だ、関わるな。ネイの頭の中で理性が警告を発した。

「二度と私に近寄らないでいただきたい」

「そんなに怖い顔をするな。今日のところはこれで帰る。次に会う時まで無事でいろ。——そうだ……」

 そう言うと、ナポレオンは左の手首にはめていた銀のブレスレットを外した。

「手を出せ」

 ためらっていると、ナポレオンはネイの手を取り強引に掌にブレスレットを押し込んだ。

「俺とお前が出会った証だ。取っておけ」

 ネイの瞳を真っすぐに見つめてそう言うと、ナポレオンは踵を返した。

「いい事を教えてやる。そいつを身に着けている限り貴官は不死身だ。敵の剣も弾も貴官を避けていく」

 背中を向けたまま、冗談としか思えぬことを、ナポレオンは本気としか思えぬ口調で言った。

「なぜ私に?」

「言っただろう。俺には貴官が必要なんだ」

 振り返りもせず病院の階段を降りて行くナポレオンの背中を、ネイは身動きすらできずに見送った。ネイの掌にはナポレオンの体温が残ったままのブレスレットが握られていた。


 すぐに捨ててしまおう。そう思ったはずだった。だがその後ネイが戦場にいるとき、左手首には常に銀のブレスレットが光っていた。

 あの日、フォンテーヌブローで皇帝に退位を迫った時でさえ——。

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