第2章 カトル・ブラ
第21話 アルノー
ブリュッヒャーに別れを告げたウェリントンがイギリス軍陣地に帰陣した頃、フランス軍左翼軍司令官ミシェル・ネイは、カトル・ブラへの途上にあった。
陽はすでに中天にかかっている。
しかし、早朝に進発したネイの軍は、カトル・ブラの手前でなぜか歩みを止めたきり、そのまま何時間も動いていない。
「何があったんですか?」
フランス軍の新人歩兵アルノーは、同じ小隊に属するロベールに尋ねた。アルノーは2か月前に徴兵されたばかりで、今回が初めての戦闘である。ロベールはすでに老兵と呼んでよい年齢のたたき上げの兵士であり、一度は引退していたが、ナポレオンの復活に伴い軍に呼び戻されていた。
「さあな、何があったかなんて末端の俺らには分からねえよ。俺らはただ命令に従うのみだ。進め、止まれ、撃て。それだけさ」
ロベールは長く伸びた髭を撫でながら言った。マスケットを足元に置き、地面に座り込んでいる。
「あんたも座りなよ」
「いえ、座れという命令は受けていませんから」
「堅い奴だな。命令なんぞ関係ねえよ」
ロベールは矛盾したことを言った。
「見ろ、みんな座ってるじゃねえか」
ロベールは周囲を指さした。その言葉どおり、他の兵士もほとんどが腰を下ろし、雑談に花を咲かせている。
「休めるときに休んどかないと、戦いがはじまりゃ何時間も座れねえんだ。これは経験者としてのアドバイスだ。新人は素直に聞いておけ」
ロベールに強く言われて、仕方なくアルノーも腰を下ろした。
「おいアルノー、教えてやろう。敵の司令官はウェリントンだ。ネイ元帥はスペインで奴に敗れた。つまり元帥は強敵を前にして怖気づいたってとこじゃねえのか」
「でもネイ元帥は皇帝陛下から勇者の中の勇者と称賛されたお方じゃないですか、そんなはずありませんよ。きっと緻密な作戦を練っておられるんだと思いますよ」
入隊したてのアルノーは過去のことはよく知らない。だが、凄惨を極めたロシアからの撤退戦で最後まで怯むことなく戦い、多くの味方を救ったことはフランス国民の間では尊崇の念をもって語られていた。
「どうだかな。偉い人の頭の中なんぞ俺には分からねえよ。そんなことより早く昼飯にして欲しいもんだな」
ロベールはそう言って糧食班に向けて催促するような視線を送った。近くの村には昼餉の仕度の煙が立ち上っている。それを見たとたん、アルノーも急に空腹を感じた。
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