第20話 ブリュッヒャーの思い
高く昇った初夏の太陽がじりじりと照りつける。プロイセンの老将ブリュッヒャー元帥は、厚手の軍服を脱ぎ捨てたい衝動に駆られた。
湿気を帯びた空気が、じっとりと汗ばんだ額にまとわりつき、なお一層不快な気分にさせる。
不意に強い風が吹き抜けた。
目を細め、風の駆け抜ける先を見遣る。
風は、なだらかな斜面を勢いよく下っていく。
斜面には、馬車がやっとすれ違える程度の細い道が通る。その道に沿って、煉瓦造りの農家が軒を連ねている。斜面を下りきったところで、道は太い街道と合流し、隣の村へと続いていく。
昨日、シャルルロワの街を追われたプロイセン軍は、フランス軍の追っ手を警戒しつつ、街道を夜通し駆け続け、ここリニーの村に到着した。
農業以外にこれといった産業もない小さな集落である。
平和な村に突如現れた異国の軍隊に、村人たちは驚き、ほうほうのていで村の外へ逃げだした。
彼らが昨年の秋に種をまき、厳しい冬の寒さの中でも手入れを絶やさず育ててきたライ麦は、ようやく収穫期を迎えようとしていた。
初夏の日差しを浴びて、麦畑は黄金色の輝きを放っている。その上にいま、青い軍服を着た歩兵がマスケットを肩に担いで並ぶ。騎馬が落ち着きなく前足で地面を蹴り、荷馬に曳かれた砲車が穂をなぎ倒しながら進んでいく。
戦闘が始まれば、畑はさらに激しく踏み荒らされ、砲弾によって跡形もなく吹き飛ぶだろう。生活の糧を失う農民たちのことを思うと、豪快奔放な前進元帥も胸が痛んだ。
老元帥はときどき思い出す。
まだ十代の一兵卒だった頃、彼はある戦闘に従事した。
敵が占拠する小さな農村を、ブリュッヒャーの所属する連隊が包囲した。
上官の命令により、敵が立てこもる村の地主の屋敷に火を放とうとした時、屋敷の中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。
ためらうブリュッヒャーに、上官はサーベルを突き付け、屋敷に火を放つよう強く迫った。
結局、ブリュッヒャー少年は命令を実行し、屋敷は炎に包まれた。泣き声は燃え盛る炎とともに激しくなり、ふいに消えた。
焼け跡を、彼は見ることができなかった。勇気がなかったのだ。
後に聞かされた。屋敷に立てこもっていた敵は全滅したと。屋敷の主とその家族の運命は聞かされなかった。
その時から、ブリュッヒャーは戻ることのできない道を、ただひたすらに前進して来たのである。
「閣下、ウェリントン公爵がお見えです」
グナイゼナウ中将の声で、ブリュッヒャーは我に返った。
振り返ると、イギリス軍のウェリントン元帥が固い表情で栗毛の愛馬コペンハーゲンから降りるところだった。
深夜に兵を率いてブリュッセルを進発したウェリントンは、明け方にはカトル・ブラに着陣した。
その後、ブリュッヒャーと連絡を取るため、休む間もなくリニーへと馬首を翻して来たのである。
「必ず来ると信じておったぞ、我が友よ」
「うむっ、臭いますぞ。こんな時にまで飲んでおられるのですか」
大げさに手を広げて近寄ったブリュッヒャーに、ウェリントンは大きく身をそらせた。
「酒は戦場の友というではないか。飲むほどに我が戦略は冴え渡るのだ」
ブリュッヒャーは低音を響かせながら豪快に笑った。
「今朝の時点では我が軍は敵の半分ほどしかおらんくての。攻めて来られれば、さすがのわしも苦戦するじゃろうと思っておった」
「すると今は」
「敵がのんびりしておったおかげで、後方に控えておったピルヒの軍を呼び寄せることができたわい。いずれティールマンも到着すれば、わしらのほうが優勢じゃ」
「なぜ敵は攻めて来ぬのでありましょうな」
「強行軍で疲労した兵を休ませておるのでありましょう」
そう答えたのはグナイゼナウだった。
「フランス軍がシャルルロワに姿を見せたのが昨日の未明。恐らくその前日も、長距離を移動しているはず。さすがに疲れがたまっておりましょう」
「わしらにとっては、ありがたいことじゃな」
「ですがブリュッヒャー殿、この布陣はまずいのではありませぬか」
ウェリントンの表情は硬い。
「まずいとな」
「かように敵側の斜面に部隊を置いたのでは、敵からまる見えではありませぬか。これでは砲撃してくれと言っているようなもの。裏側の斜面に身を隠し、曲射砲を敵陣に打ち込むべきと思われますが」
「貴公の助言、ありがたく受け止めますぞ。じゃが、正面から敵に睨みを利かすのが、わしのやり方でな」
老元帥は、斜面に置かれた大砲の砲身を
視線の先には、陣形を整えたフランス軍が、攻撃命令が下されるのを今かと待っている。
「まあ、それぞれに戦い方がありますからな。貴殿がそうおっしゃるなら、私はこれ以上言いますまい。さてカトル・ブラに戻らねば。我が軍の戦闘も近い」
実際のところ、ブリュッヒャーの心配をしている場合ではないのだろう。コペンハーゲンに跨ろうとするウェリントンの表情は曇っている。ウェリントンほどの名将でも不安を隠せぬほど、ナポレオンは強大な敵であった。
「ウェリントン公爵!」
手綱を取り、馬首を返そうしたウェリントンに、ブリュッヒャーは大声で呼びかけた。
「こちらの敵はさっさと片づけて貴公の援護に駆けつけますゆえ、それまでわしの相手を残しておいてくだされ」
いかつい髭面を崩してブリュッヒャーが笑うと、ウェリントンの顔にも笑みが浮かんだ。
戦場へ向かう戦友に対する、それはブリュッヒャーなりの心遣いであった。
豪胆に見える老元帥であるが、戦場で戦う者の胸の内にある不安や葛藤を誰よりも知っている。酒を飲んだり、大胆な言動を見せるのも、兵士たちの心に余裕を持たせるための配慮なのだ。
馬を止めたウェリントンが大きく振り返って叫んだ。
「あいにく私は手柄を独り占めしたい質でしてね。ご要望にはお答えしかねますな」
高らかに笑い声をあげると、ウェリントンはコペンハーゲンとともにカトル・ブラの方角へ去っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます