第19話 暗影

 つい明け方まで、要塞の屋根には、黒鷲の紋章が四方に睨みを利かすように翻っていた。

 今は青・白・赤の三色旗が、午後の陽射しを浴びて揚々と風になびいている。


 フランス軍は、まだ陽が正南の空に昇り切らぬうちに、シャルルロワの街からプロイセン軍を駆逐し、この堅牢な城塞都市を手中に収めた。

 戦闘による犠牲者は、ごくわずかであった。

 抵抗らしい抵抗もないまま、プロイセン軍はブリュッヒャーらの本隊がいる北東の方角へと退いていった。


「諸君に告げる。大陸軍グランド・アルメは完全に復活した!」

 街の中心にある広場にずらりと整列した兵士たちの前で、ナポレオンは声高らかに宣言した。

 兵士らは歓呼の声でこれに応えた。その声は広場に入りきらぬ兵士にも広がり、さらには、まだ城壁の外にいる者たちまでがこれに呼応した。

 鼓笛隊のファンファーレが華やかに鳴り渡り、砲兵は祝砲の力強い咆哮を初夏の澄み渡る青空に轟かせた。

 ナポレオンは、皇帝近衛猟騎兵連隊の大佐服に身を包んでいる。

 濃緑色の上衣に純白の下衣。フランス帝国が栄華を極めていた頃、ナポレオンはこの制服を好んで身に着けていたものである。

 当時を知る古参の兵士の中には、その姿を目にして感涙にむせぶ者さえいた。

 そんな兵士たちに、ナポレオンは満足げな笑みを浮かべて両手を振った。

 その様子は、連戦連勝を重ね、諸国から恐れられた往時のフランス軍の威勢を彷彿とさせるものであった。


 それにもかかわらず、ネイの心は冬の寒空のように晴れない。


 ——俺は皇帝陛下と初めて出会った若き日以来、その強さに憧れ、少しでも近づこうと、一挙手一投足から目を離すまいとしてきた。困難に直面したときは、陛下ならばどうするだろうかと考えてきた。


 そのネイは、ナポレオンの行動に以前とは異なる部分があるのを鋭敏に見出していた。


 ——以前の皇帝陛下ならば、勝利の余韻に浸る暇もなく、次の指令を下されたはずだ。


 ナポレオンは昼夜の区別なく、矢のごとく指令を飛ばす男だった。

 しかもその言葉は短く、ひどく抽象的だった。そこから意図を読み取り、迅速かつ的確に行動できる者だけが、将官として皇帝の傍に仕えることを許された。付いて行けぬ者は、たとえ古参の将官と言えども軍営から立ち去ることを求められたのである。


 だが今は違った。ナポレオンは命ずることを忘れてしまったかのように、将軍たちと談笑している。

 兵士たちも、その姿に気を緩めている。武器を置き歓談する者、遊戯に興ずる者の姿が目立つ。中には、まだ昼中というのにボトルを手にしている者すら見られた。


「兵員と装備をそろえても、中身は新参の未熟な兵士が多数だ。緒戦の勝利でこの浮かれ様では、この先が思いやられる」

 ネイは苦々しげにつぶやいた。

 これでは追撃どころか、敵が反転して来ればひとたまりもないであろう。


 焦燥と苛立ちを抑えきれず、ネイは速足でナポレオンに歩み寄った。

「プロイセンはまだ撤退の途上にあり、戦闘の準備が整っておりませぬ。いま追えば敵を撃破するも容易。カトル・ブラのイギリス軍も然り。進撃のご命令を」

 険しい目つきで詰め寄るネイの肩を、スールトが掴んで引き離した。

「わきまえられよ、ネイ元帥。兵をおもんぱかり、ひとときの休息を賜らんとする陛下の御心が分かりませぬか」

「兵を慮ればこそ、今動くべき。こうしている間にも、我らの動きを知った敵が集まってくるでありましょう。明日の敵は今日の倍であるやも知れませぬ」

「ここは敵の領内。焦って兵を動かせば、かえって墓穴を掘るでしょう」

「スールト元帥。俺は貴官にではなく、皇帝陛下に申し上げている」

「もうよい!」

 ナポレオンが苛立ちの交じった声で言った。

「兵は昨日丸1日を移動に費やした。今日も未明から作戦に従事している。休息を取らせることも必要であろう。今後の行動は私と参謀長のスールトとで決定する。追って指示するゆえ、それまで下がっておれ」

 疎ましそうに言うと、ナポレオンはネイに背を向けた。

「陛下……」

 呼びかけるネイの前に、スールトが無言ですっと割込み、冷たい目つきでネイを制した。

 そのスールトを押しのけようとして、ネイはとどまった。多くの兵の眼前で元帥2人がこれ以上争えば、軍内に動揺を与えると考えたからである。

 スールトが目の前から去ったとき、ナポレオンの姿は、もはやそこにはなかった。

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