第18話 ナポレオンの作戦

「なんということだ!」

 ブラウンシュヴァイク公を見送ったジョージアナが舞踏場へ戻ろうとしたとき、父親のリッチモンド公爵の書斎から大きな声が聞こえた。

 扉は閉ざされているため中の様子は窺えないが、声はウェリントンのものだった。帰宅したのではなかったのだろうか。ジョージアナはそっと扉に近づいた。


「ブリュッヒャー元帥からの報告です。ナポレオンの狙いは我々とプロイセンとの分断です。シャルルロワ侵攻は陽動ではなかったのです。くそっ、奴にまんまと裏をかかれた!」

 激しく机を叩く音が聞こえた。

 日頃冷静なウェリントンが感情的な言葉を発するのを、ジョージアナは初めて耳にした。

「それは確かな情報なのですか」

 リッチモンド公爵の声がした。

「プロイセンに投降した敵の将校がナポレオンの指令書を持っていたそうです」

 ウェリントンが苦々しげに言葉を継いだ。

 ブールモンが所持していた指令書から明らかになったナポレオンの作戦は、驚くほどに周到なものであった。


 まず、国境地帯の幅広い地域で挑発行為を繰り返す。これによって同盟軍を攪乱し、その兵力を分散させる。

 そのうえで、西のイギリス軍と東のプロイセン軍の間に位置するシャルルロワ付近に密かに兵を集中させ、一気に攻め陥とす。

 その後、軍をナポレオン率いる主力(右翼軍)とネイ元帥率いる分遣隊(左翼軍)の2つに分ける。

 分遣隊は北上して、シャルルロワ-ブリュッセル間を南北に結ぶ街道と、もう1本の東西街道が交わる交通の要衝であるカトル・ブラと呼ばれる地点を押さえる。イギリス軍とプロイセン軍をつなぐ街道を封鎖して、両軍の連絡を断つのである。

 その間に主力軍は東へ向かい、孤立したプロイセン軍を討つ。しかる後、西に反転して分遣隊と合流し、イギリス軍を討つという目論見である。

 これが、約2倍の敵を相手にするためナポレオンが考えた戦略であった。敵を真っ2つに分断すれば、半分の兵力でも対等に戦えるという訳である。


「我々とナポレオンの最初の戦場はカトル・ブラ。しかし、そこで防衛に失敗し、そしてプロイセンも敗北すれば、ナポレオンの次の標的は、ここブリュッセルです」

「うむむ……」

 リッチモンド公爵の唸る声がドア越しに聞こえた。

 ジョージアナの父はブリュッセル防衛部隊の指令官に任じられている。しかしウェリントンとは異なり、軍人として目立った功績のない彼にとって、それは過大な重責に違いなかった。

「ウェリントン公、なんとか奴をくい止めていただけませんか」

「微力を尽くします。だが、保証はできかねます。もしカトル・ブラを突破された時には……」

 扉の向こうの声が低くなった。ジョージアナはさらに一歩扉に近づき、耳をそばだてた。

「ここが最後の防衛線になる」

「ワーテルロー?聞いたことのない地名ですが」

「ここは小高い丘が東西に延びる場所。この丘の北側に兵を隠し、南から来る敵を迎撃します」

「さすがはウェリントン公。すでにこの辺りの地形を調べ、戦略を練っておられたという訳ですか」

「ですが、私の戦略はここまでです。ここで敗れた時、私は戦場に散る。そして、ブリュッセルの運命はあなたの手に委ねられる」

 一瞬の沈黙の後、リッチモンド公の深いため息が聞こえた。

「いつまでもこうしてはいられません。今夜のうちにカトル・ブラへ向かわねば」

 扉に近づく足音が聞こえ、ジョージアナは急いで扉から離れた。



 リッチモンド公爵やジョージアナに別れを告げ、ウェリントンはまだ客の残る屋敷を出た。外は深閑とした闇に包まれていた。

 ところどころ窓から漏れる光と、最近目立つようになってきたガス灯の明かりが、石畳の路地をぼんやりと浮かび上がらせている。

 夜空には満天の星。上弦の月が片側だけを白く輝かせている。この先、月は徐々に丸みを帯び、満月となって夜道を明るく照らすだろう。


「行こうか、コペンハーゲン」

 ウェリントンは、厩舎につながれた馬に声をかけた。コペンハーゲンは彼の愛馬の名前である。

 この栗毛の馬は、かつて競走馬として活躍していたものを、2年前にウェリントンが買い取ったものである。以来、スペインでの半島戦争を戦うウェリントンの軍馬として、数々の戦いを共に闘ってきたのであった。

 コペンハーゲンに乗っている限り自分は決して弾に当たらない、とウェリントンは半ば本気で信じていた。コペンハーゲンもまた、ウェリントンを心から信頼しているようだった。


「この戦いが終われば、お前もゆっくりできるはずだよ」

 そう言って公爵は愛馬にまたがった。

 公爵の言葉に答えるかのように、コペンハーゲンのいななきが煉瓦造りの街にこだまし、深い夜の奥に溶けていった。

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