第5話 皇帝の帰還(2)

「……いや待て」

 ネイは我が目を疑った。ナポレオンが、手にしたサーベルを高く上げたかと思うと、それを横へ放ったのである。そして、ナポレオンは単騎、こちらへ進み出てきた。


「丸腰の者は撃たぬ。そう読んだか」

 情け容赦ない戦いぶりで敵から恐れられるネイだが、武器を持たぬ者に銃を向けたことはなかった。

「俺の性格を知り尽くしている」

 ナポレオンを背に乗せたマレンゴは、歩みを止めることなく近づいてくる。ネイの背後の兵士らに緊張が広がるのが、背中越しにも感じられた。


 ネイのほぼ目の前と言っていいほどの所で、ナポレオンは止まった。ナポレオン軍の兵士との間にはかなりの距離がある。今ならこのまま生きて捕らえることもできる。レイユがネイにそっと近づき、指示を仰ぐような視線を送ってきた。だがネイは黙ったままそれを手で制した。


 ナポレオンは動かない。その瞳は真っすぐにネイの瞳を見つめている。

「あの頃と変わらぬな、ネイ。獲物を狙う獅子のような目だ」

 突然、ネイの脳裏にナポレオンと共に戦場を駆け巡った日々の光景が、とめどなくあふれ出した。

「行くぞ、ネイ」

 当然のことのようにナポレオンは言った。その口調はあの頃と寸分違わない。


 ナポレオンのグレーの瞳が、ネイのブルーの瞳を見据えた。 

「何をためらう。俺たちの手で、栄光の未来を創り出すのだ」

 ネイは黙ったままナポレオンを見つめ返した。

 ナポレオンは視線をそらそうとしない。その表情は、あの頃のように確信に満ちている。

 ネイはゆっくりと馬を降りた。

 ざわついていた両軍の兵士が静まり返り、張り詰めた空気が一帯を包み込んだ。

 かたずを飲んで見守る兵士たちの鼓動が聞こえるかと思うほどの沈黙と緊張の中、ネイは静かにナポレオンの眼前に正対した。

 直後、ネイは腰のサーベルを抜き放った。両軍の兵士が一斉に前に飛び出す。

 だがネイはそのサーベルを地面に突き立てた。

 そしてナポレオンの足元にひざまづいた。

「これまでの無礼、お詫び申し上げます。皇帝陛下」

 一瞬の沈黙の後、両軍の兵士からどっと歓声がわき上がった。


 1815年3月20日、ナポレオンは数万の大軍を伴い、1年ぶりにパリへ凱旋を果たした。ルイ18世は前日のうちにパリを捨てて国外に逃亡していた。

 早春の澄んだ空に市民の歓喜の声が響き渡る中、白地に黄色いアイリスの花をあしらったブルボン家の旗が降ろされ、代わりに青・白・赤のトリコロールがテュイルリー宮殿の屋根に翻った。

 宮殿の周囲を埋め尽くした人々が口々に「皇帝陛下万歳ヴィーブ・ランペルール」を叫ぶ。

 ナポレオンは宮殿のバルコニーから両手を大きく広げてそれに応えた。その腕に、再びヨーロッパを収めようとするかのように。

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