第4話 皇帝の帰還(1)
パリから南東に150キロメートルほどのところに、オーセールという小さな町がある。古代ローマ人によって築かれたという歴史ある町で、ワインの産地としても知られる。
1815年3月10日、ネイの軍勢はこの町で、軍隊を引き連れて進むナポレオンと遭遇した。
「なんという数だ……」
レイユがひきつった声を漏らした。
1000人だったはずのナポレオンの兵は、わずか半月ほどの間にその何倍もの数に膨れ上がっていた。行く先々で、国王を捨てナポレオンに寝返る兵士が続出したのだろう。歩兵、騎兵、そして大砲。それらが列をなしている。かつてヨーロッパ最強を誇った大陸軍には及ぶべくもないが、兵員、装備の両面において軍隊と呼ぶに値する実態を備えつつあった。
「ネイ元帥、あなたが国王陛下におっしゃったことは正しかったようですな」
「ああ、フランス国民にとってナポレオンはみじめな敗残者ではない。いまだ眩いばかりの輝きを放つ英雄だ」
「その英雄を鉄の檻に入れて連れ帰る。成り行きとはいえ無茶なことを言ったものですな。人望の厚いあなたでなければこちら側の兵士もとっくに寝返っているところですぞ」
「止まれ」
レイユの言葉を遮るように、ネイは軍を止めた。
ネイとナポレオンは、互いの表情が確認できるほどの近距離で対峙した。2人の背後には双方の兵士が、いつでも攻撃できるよう銃剣を構えている。
「数だけ揃えても、質が伴っておらぬな」
ネイは冷静に分析した。ナポレオンの兵たちは、銃を持つ手に力が入りすぎている。パリから遠く離れた僻地に配属される兵は、入隊間もない新兵か、目立った活躍の出来ぬ二流の戦力だ。対するネイの兵は、王都を守るために選りすぐられたエリート兵士たちだ。
「戦えば勝てます」
「生かしたまま捕らえよというのが国王陛下のご命令だ」
はやるレイユをなだめつつ、視線を相手部隊の先頭に立つナポレオンに向けた。
ナポレオンは馬に乗っていたが、ネイの馬が黒光りするほどの毛並みと隆々たる筋肉に包まれた逞しい体つきであるのに対し、ナポレオンの馬は、皇帝を称する者が乗るにはあまりにみすぼらしい、やせ細った馬だった。
「あの馬はもしや……」
「マレンゴですな」
ナポレオンが皇帝となる以前より幾多の戦いを共に戦い抜いてきたナポレオンの愛馬であった。大柄ではないが逞しい体つきと美しい毛並みを誇った名馬であったが、今や往時の雄姿は見る影もない。
「兵に食わせるのが精一杯で馬にまで食糧が回らぬか」
ネイはナポレオン軍の台所事情を見透かした。
「元気そうだな、ネイ。会いたかったぞ」
先に声を上げたのはナポレオンだった。親しい友人に再会したかのような明るい声は、無理に繕っているのか、それとも本心か。
「勘違いするなボナパルト。俺はお前に会いに来たのではない」
1年前までは「皇帝陛下」としか呼んだことのなかった相手だ。ネイは声が上ずりそうになるのを必死に抑え、声を張り上げた。
「お前を国王陛下の下へ引き立てる。そこで陛下のご慈悲を乞うがよい」
ネイの言葉にナポレオンが苦笑いを浮かべるのが見えた。
「どうしたネイ、声が震えているぞ」
内心の動揺を見抜かれ、ネイは慌てて話題を転じた。
「なぜ戻った。島で大人しくしておれば良いものを。本来ならば大西洋の孤島に流されてもおかしくないお前にエルバ島の領主の地位を与えた諸侯の情けを無にするとは」
「諸侯とは無能の代名詞だ」
ナポレオンの声が侮蔑に染まった。
「奴らはこの1年間、何をしてきた?ヨーロッパを革命以前に戻そうとしながら、一向に話し合いがまとまらぬではないか。当然のことだ。時計の針は巻き戻せるが、時代の流れは戻らぬ。例え奴らが旧体制の復活を望んでも、民衆がそれを許さぬであろう。民衆は新しい時代を知ってしまったからだ。出自に関わらず才能ある者が勝ちあがる時代を。そして民衆は求めているのだ。変化を望まぬ者と戦う強い指導者を。私がエルバ島から戻ったのは、彼らがそれを望んでいるからだ」
ナポレオンの口調は威厳と自信に満ち溢れていた。その姿は、1年前、すがるような眼をしていた男のものではなかった。
進発間際に国王が言い放った「平民出のお前を貴族に列してやったのはわしであることを忘れるな」という言葉がネイの脳裏に蘇った。
当人としては、平民にもチャンスを与える開明的な君主のつもりであろうか。けれども、その発想こそが、貴族と平民を歴然と区別する旧体制を象徴するものであることに国王は気付いていただろうか。
「時代の流れを戻そうとしているのはお前ではないか、ボナパルト。過ぎ去りし日々の栄光を取り戻すためにその者たちを利用しているのであろう」
「我々は過去を取り戻すのではない。未来を創り出すのだ」
我々、という語をナポレオンはことさら強く発音した。ネイはナポレオンの背後に居並ぶ兵士に視線を移した。皆一様に、ナポレオンの言葉に肯きながら聞き入っている。「その通りだ」と叫ぶ者もいた。
彼らのほとんどは、つい最近までブルボン王朝軍の指揮下にあった。だが彼らはナポレオンの帰還を歓迎し、自ら進んでその麾下に参じたのだ。ある者は部隊を抜け出し、またある者は部隊を丸ごと引き連れて。
「さすがはナポレオンですな。巧みな弁舌だ。このままでは我が兵にまで動揺が広がりますぞ」
その言葉は、職務に忠実なレイユにして、何がしかの感銘を受けたことを表していた。ましてや兵士らはなおさらであろう。
「狙撃させますか?殺すもやむを得ますまい」
レイユがつぶやくように言った。
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