第3話 パリ、1814

「……は……ます。……閣下!」

「あ?ああ。すまぬ、聞いていなかった」

「元帥閣下、兵は歩き続けで疲れております。そろそろ休息を取らせてはいかがでしょうか」

「そうか、気づかなかった。うむ、休ませよ」

 ネイと馬を並べて進む将校のレイユに促されて、ネイは気のない応えを返した。

「考え事をなさっていたのですか」

「ああ……」

 ぼんやりと宙を漂っているかのような返事に、これ以上話しかけても無駄だと悟ったのか、レイユはネイの下を離れ、兵士らに休息の指示を出し始めた。


 パリを進発して以来、ネイの脳裏からは1年前のある出来事が離れなかった。


   *


 その日、大波のごとく押し寄せたロシア、プロイセン、イギリスなどの連合軍によって、パリの街は占拠されていた。色とりどりの軍旗が街を埋め尽くし、パリ市民は略奪に怯え、家々の扉は硬く閉ざされていた。

 首都放棄を余儀なくされたフランス軍は、パリから南へ60キロメートルほどの位置にあるフォンテーヌブローの街に退避していた。

 街の中心にある宮殿の広間では、首都奪還を主張する皇帝ナポレオンを、疲れ切った表情のフランス軍元帥たちが取り囲んでいた。

 そして、その中にはネイの姿もあった。


「首都防衛を任せていたマルモンは連合軍へ寝返りました。パリではタレーランめが臨時政府を標榜して、皇帝陛下の退位を宣言しております」

 切迫した口調でベルティエが告げた。その場にいる者の中で、最年長の元帥である。


「マルモンの腰抜けにパリを任せたのが間違いであった。だが、まだ勝機はある。ネイ、お前は部隊を率いて郊外のプロイセン軍を撃破せよ。ベルティエには首都攻略を命ずる。……どうした、早く動かぬか」

 ナポレオンの命令はいつも矢継ぎ早で、しかも簡潔である。時に言葉足らずで意味が不明瞭なこともある。しかし皇帝に同じ言葉を二度言わせることはできない。そのため部下は一言一句聞き漏らさず、かつ即座に理解しようと、必死に耳を傾けるのが常であった。

 しかし今は違った。ナポレオンから直々に元帥杖を授かり、格別の忠誠心を持つはずの者たちが、命令が聞こえなかったかのように身じろぎもせぬまま冷ややかな視線を主君に向けていた。


「パリを砲撃せよとおっしゃるのか。そのようなことをすれば市民に多数の犠牲が出る。自国民殺しの汚名を着るのはお断り申し上げる」

 ベルティエが毅然とした口調で命令を拒否した。

 すでに60歳を超えているが、その豊富な経験と知識で参謀長として献身的にナポレオンを補佐してきた宿将である。

 股肱ここうたのんだ老元帥の予想外の抵抗に、さしものナポレオンも鼻白んだ。


 傍らにいま1人、こちらも60歳近いルフェーヴルという元帥がいた。

 軍人というより農夫のような素朴な容貌の老将は、聞き分けのない若者を諭すような口調で、自分より15歳ほど年下の皇帝に語りかけた。

「革命以来十数年間、私らは戦い続けでいささか疲れておりましてな。そろそろ引退して穏やかな余生を送らせていただきたいと考えておるのですよ。この期に及んであなたのために命を捧げろというのは勘弁していただきたいものですな」


 それでもなお何かを言おうとするナポレオンを、ネイが遮った。

「パリが戦場となれば、宮殿も大聖堂も、そして民家の一棟も残らず灰となるであろう。たとえ戦に勝ったとしても、我々はすべてを失う。それを避ける唯一の方法は……」

 ネイは足を踏み出しナポレオンに迫った。ネイの赤橙色の髪が揺れる。

「あなたが退位することだ」

 信倚しんいしてきた家臣の口から発せられた「退位」という言葉は、ナポレオンの心に大きな衝撃を与えたようだった。


 ナポレオンはすがるような弱々しい視線をネイに向けた。

 これと同じ眼をした男を何人も見てきた、とネイは思った。

 戦場で傷つき倒れた者のうち、助かる見込みがある者は後方へ搬送し軍医の手当を受けさせるが、助かる見込みがないと判断された者はその場に置き去りにされる。特に戦に敗れ退却する局面では、自力で動けなくなった者は皆、見捨てざるを得ない。

 残された者が立ち去る者に向ける眼差しに、今のナポレオンの眼が酷似していたのである。


 威厳に満ちていた皇帝が初めて見せる哀れな表情に戸惑いながらも、ネイは首を横に振った。

 ナポレオンは力なくうなだれた——。


   *


「俺は裏切り者なのか。最後まで皇帝と共に闘うべきだったのか」

 あの日以来、幾度となく繰り返してきた問いだ。

 違う。あのとき戦っていたならば、フランスは王政復古どころか、他国に分割支配されていたに違いない。

 そして焼け野原となったパリの街をイギリス兵やドイツ兵が闊歩していたことだろう。

 歴代の国王が収蔵した美術品を展示し、フランスの栄光の象徴とも言えるルーヴル美術館さえも灰燼に帰し、この国の輝きは全て過去の物となっていたはずだ。


「俺は間違ってはいなかった」

 いまだ馬から降りず、1人何やら呟いているネイを、休息中の兵士らが不思議そうに眺めていた。

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