第2話 皇帝ナポレオン

 ナポレオン・ボナパルトは、1769年、コルシカ島の下級貴族の家に生まれた。

 9歳で陸軍幼年学校に入学。16歳で砲兵士官としてフランス陸軍に入営した後は、その類まれな軍事的才能により、24歳で少将、26歳で国内軍司令官と、瞬く間に栄達の階梯かいていを駆け上った。

 革命後の共和政府と周辺諸国との革命戦争において輝かしい戦果を上げ、英雄としての名声を揺るぎないものとした彼は、その圧倒的な支持を背景に、国民投票を経て皇帝に即位した。

 時に1804年、ナポレオン35歳であった。


 独裁権力を握ったナポレオンは、その野心の触手を周辺諸国へと伸ばした。

 稀代の戦争の天才の前に各国は次々と膝を屈し、ヨーロッパほぼ全土がナポレオンの手中に落ちた。


 だが急激な国家の膨張は、やがて大きな歪を生じた。

 皇帝即位から4年後、ナポレオン支配に反発するスペインで、独立を求める民衆による反乱が起こると、ヨーロッパでフランスからの独立を保っていた数少ない国家の1つであったイギリスがスペイン側に立って参戦。半島戦争と呼ばれたこの戦争で、それまで無敵を誇ってきたナポレオン軍は、名将アーサー・ウェルズリー率いるイギリス軍に苦戦を強いられた。


 それ自体は小さなつまづきに過ぎなかった。だが、1つの癌細胞が増殖し、やがて全身を蝕むように、打倒ナポレオンの機運が帝国を侵蝕し始めた。

 まずオーストリアが、イギリスと結んで反旗を翻した。これを抑え込んだのもつかの間、今度は東の大国ロシアが、イギリスとの通商を禁ずる大陸封鎖令を破り交易を始めた。

 これに対しナポレオンは、ロシアに制裁を加えるべく60万の大軍を以てロシアに侵攻した。

 しかし、これが彼の運命を暗転させた。ロシア軍の焦土作戦と、想像を絶する冬の寒さによりフランス軍は壊滅。生還した兵士はわずか5000人であったという。


 巨大な帝国はその巨大さゆえに、いったん崩壊を始めると、もはや誰にも止めることはできなかった。周辺諸国が対仏大同盟を結んでナポレオンに立ち向かったとき、彼に戦う力は残されていなかった。

 至尊の冠を戴いてより10年目の春、皇帝は退位し、生まれ故郷コルシカ島近くにある、人口1万2000人の小島エルバ島に流された。


 とは言え、ナポレオンはここで囚人のような生活をしていたわけではない。彼はこの島の領主としての地位を与えられ、小規模ながら軍隊を持つことさえ認められていたのである。

 のみならず、なおも皇帝を称することが許されたのは、彼にかけられた温情だったのか。それとも小さな島の「皇帝」を笑いものにするためであったろうか。 


 ナポレオンはエルバ島での暮らしに満足しているようだった。自分がかつてヨーロッパを治めた皇帝であったことすら忘れ去ったように見えた。少なくとも周囲の人々はそう見ていた。しかし実際には、彼はその間にも復活の機会を耽々と伺っていたのであった。


 その頃、戦争の勝者たちは帝国解体後のヨーロッパの体制を話し合うため、ウィーンに集まっていた。「会議は踊る、されど進まず」と評されたこのウィーン会議で、諸国の利害は対立し、ヨーロッパの秩序再建は遅々として進まなかった。

 その一方で、フランス革命とそれに続くナポレオンの治世下で自由主義の空気に触れた庶民は、封建体制への回帰を目論む支配階級への不満を募らせていった。

 ナポレオンがこの機を逃すはずがなかった。


 1815年2月、用意した8隻の船に1000人の兵を乗せ、ナポレオンはエルバ島を離れた。彼が島にいた期間は、ほんの1年にも満たなかった。


   *


「ヨーロッパを手にするだと。たかだか1000人の兵で何ができるというのだ」

 国王の態度は軽侮に満ちていた。

「見くびってはなりませぬ。奴が戦争の天才であることは陛下もご存知のはず。一刻も早く兵を出し、奴を撃つべきかと」

「わざわざこちらから撃って出なくとも、相手の方からノコノコやって来るのだ。パリに入ったところで奴の自慢の二角帽ごと頭を撃ち抜いてやるわ」

 進言に耳を貸そうともしない国王に、ネイは思わず語気を強めた。

「軍の中にはいまだナポレオンを英雄視する者も少なくありませぬ。放っておくと思わぬ痛手を被ることになりましょう」

 言い終わらぬうちに、ネイは言葉が過ぎたことを後悔した。国王の顔には明らかに怒りの感情が現れていた。

「わしよりも奴を選ぶ者がおる、そう言いたいのか。ネイ、よもやお前自身のことではあるまいな。奴によって元帥に取り立てられた恩が忘れられぬか」

「めっそうもございませぬ。私は陛下に忠誠をお誓い申し上げた身。ただ災いの芽は早めに摘んでおくに越したことはないと存じます」

 国王はしばらくの間、睥睨へいげいするような目つきで玉座からネイを見下ろしていた。

「ならばその芽、お前の手で摘み取ってみよ。己が忠誠、その行動で示すがよい」

「御意。ナポレオンがごとき敗残者は……」

 ネイはブルーの瞳に力をいれた。

「鉄の檻に入れて連れて参りまする」

「よかろう。必ず生かしたまま連れて参れ。パリ中の見世物にしてくれるわ」


 一礼して、ネイはきびすを返した。出入口の重厚な扉に手を掛けたネイに、背後から国王が声を投げつけた。

「ネイ、平民出のお前を貴族に列してやったのは、このわしであることを忘れるなよ」

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