第53話 満月(3)

「天国からは連れ戻せない?つまりあなたは、どこかからナポレオンを連れ戻したことがあるのか?まさか……。そうか、そういうことか!」

「おやおや、どうなさったのです?取り乱すとは、沈着冷静な閣下らしくない」

「なぜナポレオンが易々やすやすとエルバ島を抜け出すことができたのか、気になっていたんだ。奴は1000人の兵を乗せた船団を組んでいた。人目につかないはずがない。でも誰も気に留めなかった。なぜならその船はイギリスの商船だったからだ。そしてナポレオンにその船を提供したのは、あなただった。そうなんですね、ロスチャイルドさん」

「ははは、これはまた珍妙なことを。どこにそんな証拠があるのです?」

 ロスチャイルドは楽しそうに笑った。

「証拠は……ない」

「残念ですな。いかに名推理でも、証拠がなければ絵空事ですよ。おっと——」

 葉巻の灰がテーブルの上に落ちた。ロスチャイルドは、落ち着いた様子でそれを灰皿に拾いあげた。

「父の遺訓に反して少々語り過ぎてしまったようです」

 ロスチャイルドはいかにも困惑したような表情を浮かべ、葉巻を灰皿に置いて両手を胸の前で広げた。これ以上話すことはないということだろう。


 気付けば紅茶はすっかり冷めていた。


 ウェリントンは席を立った。ロスチャイルドもそれに続く。飲みかけの紅茶と火がついたままの葉巻をテーブルに残し、2人は応接室を出た。

「ご心配なく。放っておけば火は自然に消えますよ。もっとも、一度火の消えた煙草にもう一度火を付けても、美味くはありませんがね」

 ロスチャイルドがニヤリと口の端を上げた。


 帰り際、屋敷の長い、複雑な廊下を歩きながら、これまでの戦闘で死んでいった仲間の顔をウェリントンは思い浮かべた。

 国を選ばないロスチャイルドの生き方は、国のために命を捧げてきたウェリントンのそれとは相反するものだ。

 一方で、国家のくびきに縛られないロスチャイルドに対する羨望の思いが心の片隅にあるのも事実だった。

 国同士が争っていようと関係なく、ロスチャイルド家は国家の枠を超えてヨーロッパ中に活動の翼を広げている。国が滅び、支配者が変わっても、彼らの商売は続くのだろう。

 ロスチャイルドのドイツ語なまりの英語が耳から離れなかった。


 屋敷を出た。辺りは闇に沈もうとしている。東の空には満月が明るく光り、ウェリントンの足元を照らし出していた。

 コペンハーゲンに跨り自邸に帰り着くと、厩舎へと向かった。

 厩舎にはもう1頭の馬が待っていた。

 コペンハーゲンがその馬に近づいて行き、2頭は挨拶をするように互いの匂いを嗅ぎあった。馬同士の親愛の情を表す行動だ。

 艶のよい栗毛のコペンハーゲンに対し、もう1頭の馬は輝くような芦毛である。

「すっかり仲良くなったようだね、コペンハーゲン」

 うなずくように、コペンハーゲンは短くいなないた。


 ワーテルローの戦いの後、ナポレオンはパリへ戻った。

 ネイやダヴーはナポレオンに再起を促したが、もはやナポレオンにその気力は残っておらず、イギリス軍に投降した。今はこのロンドンで裁きを待つ身である。

 ナポレオンの再復活を恐れる諸国からは、処刑を求める声が聞こえてくる。


「あの時、同じ戦場でお前たちも敵味方に分かれていたというのに。人間だけがまだ血を求めるのか」

 寄り添う2頭を見てウェリントンはつぶやいた。

「お前の主人を死なせはしないよ、マレンゴ」

 ウェリントンは芦毛の馬の首筋をなでながら語りかけた。

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