第52話 満月(2)
「ほほう……」
ロスチャイルドはわざとらしく驚いて見せた。
「これはまた大胆な推理ですな。ですがこれまでイギリスを支援してきた私には、イギリス政府にたっぷりと貸しがある。そのイギリスがフランスに敗北すれば私は大損だ。私がそのようなことをするはずがないと思いませんか」
「確かにイギリスの敗北はあなたにとって痛手だ。だがイギリスの勝利もまた、あなたにとって不都合だったとしたらどうでしょうね」
「おっしゃる意味が分かりませんな」
ロスチャイルドが吐く煙が、ゆらゆらと漂う。
「フランクフルトで小さな古銭商を営む無名の商人だったあなたの父上が、ヨーロッパ随一の大商人となったきっかけは、大富豪ヘッセン・カッセル
ウェリントンは語気を強めた。ロスチャイルドはうす笑いを浮かべたままウェリントンを見つめている。
「あなたの一族はヨーロッパの戦乱に乗じて事業を拡大してきたといっても過言ではない。そのあなたにとって、戦争は終わらない方が好都合だ。だからイギリスを支援する裏では密かにフランスにも資金を援助し、戦争の長期化を図った。違いますか、ロスチャイルドさん」
ロスチャイルドはしばらくの間、右手に葉巻を持ったままじっとウェリントンの顔を眺めていたが、やがて口を開いた。
「さすがはナポレオンを破ったウェリントン元帥閣下だ。ご明察ですな。いかにも、私はこの戦争が長引くことを期待していたのですよ。ナポレオンが思いのほか弱くて期待外れに終わりましたがね」
「己の利益のためには、他人を戦争の犠牲にすることも厭わぬという訳ですか」
ウェリントンはもはや軽蔑の色を隠そうともしなかったが、ロスチャイルドは平然としていた。
「戦争を
「私は祖国を守るために戦っている。あなたのように、金のために戦争を利用しているのではない」
「その私の金を、咽喉から手が出るほど欲しがったのはどなたです?」
「ふん」
ウェリントンは忌々しげに、目の前の太った男を睨み付けた。
「だがワーテルローでの敗北で、あなたがナポレオンに貸した資金は回収の見込みがなくなった。さすがのあなたも相当な損失を被ったでしょうね」
「ところが、私はナポレオンに1フランたりとも貸してはおりませんでしてね」
「貸していない?それはどういう……」
「返済不要の資金提供ですよ」
「返済不要……」
「ナポレオンは、財政規律を乱すという理由から国債発行を嫌ったと世間では言われています。しかし実際には、国債を発行したくてもできなかったのですよ。革命の混乱で信用の失墜したフランス国債を引き受ける者などおりませんからね」
ロスチャイルドは、ふっと鼻で笑った。
「代わりにナポレオンは、占領地からの賠償金で戦費を賄ってきました。彼が戦争に勝ち続けているうちはそれでよかった。しかしトラファルガーの海戦に敗れイギリス上陸を断念した後は、稀代の軍事的天才といえど、自分が不敗ではないと認めざるを得なくなった。勝てなければ賠償金は入らない。そこで私を頼ってきたというわけです。私がウェリントン元帥、あなたに資金援助をしていると知りながらもね」
ロスチャイルドはおもむろに体を起こし、椅子に深く腰掛けなおした。
「私は商人です。顧客からの依頼にはできる限り応えますよ。もちろん、相応の見返りと引き換えに」
「それで、ナポレオンはどんな見返りを出したというのですか」
「閣下は先ほど、私がフランスとの密貿易で利益をあげたとおっしゃった。ですがそれは正しくない。私はフランス政府のお墨付きの下で貿易をしていたのですからね」
「政府のお墨付き……。つまりあなたにだけ大陸との貿易を認める。それがナポレオンの提供した見返りだったというわけか」
「もちろん表向きには誰も認めていない。世間は私が役人に賄賂を渡して黙認させたと思っていますよ」
「そしてあなたはナポレオンに返済不要の資金を提供した。言わば大陸との独占交易権を買ったようなものだ」
「安い買い物でしたよ。大陸の人々は質の良いイギリス製品を欲していた。投資額を回収するのに時間はかかりませんでした。本音を言えば、ナポレオンの治世がもう少し続いてくれれば、もっと儲けられたのですがね」
「あなたという人は……」
「私のした事が悪い事だと言いたげですね。私は、製品を売りたいイギリスの職人、それを買いたい大陸の人々、双方から感謝されているのですよ」
ロスチャイルドはにんまりと笑った。
「ですが、今回ばかりはさすがのナポレオンも死刑を免れないでしょうからな。いくら私でも、天国からは連れ戻せません」
ロスチャイルドが、さも残念そうに言った。
ウェリントンは、その言葉に聞き逃せない重大な含みがあることに気付いた。
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