最終章 リオン・ルージュ

第51話 満月(1)

「あなたには感謝しています。あなたが力を貸してくれなければ、ヨーロッパは再び長き戦乱の世となったことでしょう」

「お力になれて光栄です。戦争が続いては、我々商人もおちおち商売をしておれませんからな」


 応接室の椅子にもたれかかるようにして座る男は、大きな腹を震わせながらわざとらしく笑った。なまりの強い英語だ。

 部屋は上級貴族の邸宅と見まごうばかりの絢爛さである。

 巧緻を極めた装飾に縁どられた天井からは、無数のダイヤモンドやクリスタルガラスを散りばめたシャンデリアが下がる。壁の暖炉には白亜の彫刻が施され、床にはペルシャ製のシルク絨毯が敷かれている。テーブルの上には純金の燭台。窓際の花瓶は、遠く清の国から取り寄せた五彩磁器であろう。この1部屋だけからでも、この男の桁外れの財力を窺い知ることができる。

 イギリスがナポレオンとの戦争の戦費を調達できたのは、この男の力によるところが大きい。


「聞くところによると、ワーテルローの戦いの後、国債の取引で随分と稼いだとか」

「なに、大した金額ではありませんよ。——どうぞご遠慮なく」

 男はテーブルに置かれた紅茶をウェリントンに勧め、自らもティーカップに手を伸ばした。カップにはドイツ、マイセンの特徴的な絵柄であるブルーオニオンが描かれている。

「わずか1日であなたの資産は何倍にもなったと、もっぱらの噂です。その方法をぜひ私にも教えていただきたいものですね」

「これはこれは、閣下が投機に興味をお持ちとは意外だ」

「ナポレオンとの戦争で最も苦労したのは軍資金の調達でしたからね。軍人に金は必要ないが、軍隊には大金が必要だ」

「ご自身のためではないとおっしゃるのですな。殊勝なお方だ」

 男は冷めた笑みを浮かべた。

「わが財閥の始祖である亡き父の遺訓に、語るなかれ、というものがありましてね。一族以外の方に商売の秘密をお教えするわけにはいかないのですよ。——失礼」


 そう言いながら男はテーブルの上のシガーケースから葉巻を取り出し、ゆっくりと時間をかけて火を付けた。


「ですが、同じ方法がもう1度通用すると考えるほど私は愚かではないし、他人が真似をしようとしてできるものでもない」

 まして軍人などには。葉巻の先から漂う煙がそう語っていた。

 本当は自慢話を語りたくて仕方がないのだろう。嫌悪感が顔に出そうになるのを、ウェリントンはぐっとこらえた。

「なぜそう言い切れるのですか」

「元帥閣下、わが一族の強みはヨーロッパ中に張り巡らせた情報ネットワークです。それによって我々は誰よりも早く情報を掴むことができる。これは父が築き上げ、我々兄弟が引き継いでさらに発展させてきたものです」

「一朝一夕に模倣できるものではないと」

「はい。そしてこの情報網を利用して、私はイギリス中の誰より先にワーテルローでの元帥閣下の勝利を知ったのです」

「なるほど。それで、値上がり前のイギリス国債をいち早く買い占めたという訳ですか」


 どこまでもあざとい。ウェリントンは心の中でつぶやいた。それは露骨に顔に出ていたはずだが、男は気に留める様子もなく答えた。


「逆ですよ閣下、イギリス国債を売ったのですよ」

「売った?値上がりすると分かっていながら売ったと?」

「自分で言うのもなんですが、私の情報が誰よりも早く正確であることは、イギリスの商人や銀行家であれば誰もが知っていることです。だからあの日、皆が私の行動に注目していた。私はそれを逆手に取ったのです。私がイギリス国債を売れば、人々は私がイギリス敗北の情報を入手したのだと思い次々と売りに走るでしょう。そうすれば国債は大暴落です。実際、そのとおりになりましたよ」

「意図的に暴落させたのか……」

「私は最初のきっかけを作っただけです。あとは面白いように相場が切り下がっていった。そしてパニックの最中、私は一気に買いを入れたのです。間もなくナポレオン敗北のニュースがイギリスに伝わると、価格はワーテルローの戦い以前より遥かに高く跳ね上がりました。その頃にはシティに流通するイギリス国債のほとんどは私の手中にあったのです」

「つまり市場を騙したということですか?」

「私は何1つ嘘をついていませんよ。市場のルールに則って国債を売り買いしたまでのこと。私が市場を騙したのではなく、人々が市場に騙されたのです」

 いけすかない相手ではあるが、ウェリントンはその言の正しさを認めざるを得なかった。


 だがウェリントンが戦争への協力の礼という口実でこの屋敷を訪れたのは、金儲けの方法を教わるためでも、自慢話を聞くためでもなかった。

 ウェリントンは話題を切り替えた。


「ところで……」

「なんでしょうか」

「私にはどうしても納得のいかない疑問がありましてね」

「と言いますと」

「ナポレオンはエルバ島から戻ってわずか3カ月で60万にものぼる軍隊を編成した。いかに彼がフランス国民の絶大な支持を得ていたと言えども、それだけで成し得るわざではない。60万人分の軍備を整えるには、莫大な軍資金が必要なはずです。戦いに敗れ帝位を追われていたナポレオンに、その資金力があったとは思えない」

「彼に資金を提供した者がいたと」

「問題はそれが誰なのかです。まず考えられるのはフランス商人ですが、敗戦国フランスは不況にあえいでおり、とてもそんな余裕はなかったはず。次に考えられるのはフランス以外の大陸諸国の商人ですが、ナポレオンの大陸封鎖令の影響で彼らは大きな打撃を受けている。彼らにとってナポレオンはむしろ邪魔な存在だった」


 ウェリントンは紅茶を口に含み咽喉のどを潤すと、悠然と構えている男の目を見据えた。


「そう考えると、ヨーロッパ中でナポレオンに巨額の資金を援助することができたのは、父上の莫大な遺産を引き継ぎ、さらには大陸封鎖令の下でも密かにフランスの役人を手懐けて密貿易で利益をあげ、王侯貴族をも凌ぐ資産家となったミスター・ネイサン・ロスチャイルド、あなたをおいて他にいないのですよ」

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