第50話 落日(3)

 丘の頂上にたどり着いた兵士が、イギリス軍に向けて銃を構えるのが見える。丘の向こうでは逃げ場を失ったイギリス兵士が、なすすべもなく死の瞬間を待っていることだろう——。


 だが、ネイはその光景に違和感を感じて眉をひそめた。

「静かすぎる」

 イギリス軍の悲鳴、喚声、銃声。それらが全く聞こえてこない。まるで誰もいないかのように。あるいは息を潜めて身を隠しているかのように——。


 その刹那、ネイは重大なことに気付きはっと声を上げた。

「気を付けろ!そこに敵がいるぞ!」

 ネイの叫びに銃声が重なった。

 何百、何千丁とも知れぬ銃が一斉に放たれる音。

 そして丘の上に倒れ込む兵士達——。

 バタバタと倒れていくのは、皇帝近衛隊の兵士だった。


 そうなのだ。なぜもっと早く気づかなかったのか。斜面に兵を隠し、砲弾を避けつつ敵を待ち伏せする。それこそウェリントンが得意とする戦術ではないか。半島戦争で思い知らされていたはずであったというのに。


 ネイは丘を駆け上った。兵が倒れたばかりの場所に近寄るのが危険なことは百も承知である。

「元帥閣下、危険です。お下がりください」

 丘の上にたどり着いたネイの前に、皇帝近衛隊長のドルーオ将軍が緊迫した表情で馬を止めた。

 ネイは、馬から飛び降りたドルーオに問いかけた。

「伏兵か?」

「我々が坂を登りきったところで、ウェリントンの本隊を発見しました。銃で攻撃しようとしたところ、麦の穂の陰から突然敵兵が現れました。急なことで反撃もままならず……」

 ドルーオの言葉を遮るように、再び銃声が響き渡った。

 とっさにドルーオが、のしかかるようにネイの体を地面に押し倒した。

「失礼いたしました。お怪我はございませんか」

 ドルーオがネイを助け起こしながら服に付いた土を払う。

「大丈夫だ。さすがは皇帝近衛隊を預かる者だな」

 ドルーオの素早い行動を称えつつ周囲を見回し、ネイは慄然とした。

 血を流した近衛隊の兵士たちが、いたるところに倒れている。立っている者は半数にも満たないように思われた。

「皇帝近衛隊が、わずか2回の攻撃で半減した……」

 つい先刻、ネイの胸には勝利への確信が沸き起こっていた。しかし、それは無数の銃声と共にあっという間に崩れ去ってしまったのである。


 追い打ちを掛けるように 誰かの悲痛な叫びが聞こえた。

「プロイセンだ!プロイセン軍が攻めてきた!」

 急いで東の方角を見渡すと、こちらへ向かって黒風のごとく疾駆して来る軍勢があった。頭上には黒鷲の紋章が、まさに獲物を狙わんとするかのように両翼を広げている。

「さすがは義理堅いウェリントン公爵じゃ。わしのために敵を残しておいていただけたようじゃの」

 豪快な濁声で叫んでいるのは、もちろんブリュッヒャーである。

 リニーから敗走する途中で落馬し、一時は動けなくなるほどのダメージを受けたブリュッヒャーであったが、72歳という年齢を感じさせない驚異的な快復力で戦線に復帰していたのであった。


 ドルーオがネイに向かって叫んだ。

「我々は撤退します。閣下もお退きください。私の馬をお使いください」

「何を言うか。まだ兵は残っている。敵の本営は目の前ではないか。このまま攻撃を続けよ」

「たとえウェリントンを討ったとしても、プロイセンに勝つ余力は残っておりませぬ。ここは一旦退き、再起を図るべきです」

「我々はすでに一度再起した。ここで敗れれば二度目はない。戦うのだ」

「失礼ながら閣下、我ら皇帝近衛隊は皇帝陛下直属の部隊でありますれば、皇帝陛下以外のご命令はお受けできません。それがたとえ元帥閣下であってもです」

「ドルーオ!」

「退け!」

 ドルーオが部隊に向かって叫んだ。

「ま、待て……」

 引き留めようとするネイを振り払い、ドールオは背を向けて走りだした。他の兵士もそれに続く。

 フランス軍に残された最後にして最強の部隊が、敵にほとんど打撃を与えられないまま崩れるようにもと来た道を駆け戻っていく。

「皇帝近衛隊が退却するぞ!」

 歓喜の声で迎えられた彼らが、今度は絶望の悲鳴を背中に聞きながら戻って行く。


 イギリス軍歩兵隊が、逃げる皇帝近衛隊を追って動き始めた。

 ネイはドルーオが残した馬に飛び乗ると、手綱を握り、駆けだした。

 太陽は西の地平に隠れ、長い1日が終わりを告げようとしていた。残照に浮かぶ麦畑の中を、ネイは駆け抜けた。

 皇帝近衛隊の退却を見たデルロンの軍までもが、秩序を失い、競うように南へと流れてゆく。

 泥流のような人の流れに向かい、ネイは折れた軍刀を振り上げて叫んだ。

「まだ戦いは終わってはおらぬ。兵士諸君、我のもとに集え。フランス帝国元帥の死に様をその目で見届けよ!」

 だが混乱の極みの中で、その声に足を止める者はいなかった。

「元帥閣下、お逃げください」

 悲愴な叫び声が聞こえた。レイユであった。

「レイユ、お前までもが逃げよと言うのか」

「こうなっては戦う兵はおりませぬ。いかに閣下が勇者の中の勇者であっても、1人では戦えませぬぞ」

「たとえここで死すとも、敵に背は向けぬ」

「ここで死んで何になりましょうや。閣下には皇帝陛下を無事パリまでお連れする責務がおありでございましょう」

 レイユの正しさを、ネイは認めざるを得なかった。


 退却するフランス軍の後ろから、イギリス軍は大砲を手当たり次第に撃って来る。あちらこちらで榴弾が炸裂し、暮れなずむ戦場を篝火かがりびのように照らした。その明かりの中に、プロイセン軍の黒い影が、氾濫した河川から溢れ出す濁流のようになだれ込み、逃げまどうフランス軍を瞬く間に呑み込んでいった——。



 1815年6月18日、ナポレオンの百日天下ハンドレッド・デイズの幕が下りた。

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