第49話 落日(2)

 サーベルの切先が、ネイの首を貫き通した。


 そう思われた瞬間、それはネイの首からわずかに左に逸れ、地面に突き刺さって乾いた音を立てた。

 勝利の確信に満ちていたイギリス兵の顔が、憤怒の形相に変わった。だが地面に刺さった剣を、イギリス兵は抜こうとはしなかった。


 その口からうめき声が漏れ、顔が苦痛に歪んだかと思うと、がっくりと膝を落とした。剣で体を支えながら上体を徐々に倒し、ネイに覆いかぶさるように倒れこんできた。そしてそのまま動かなくなった。


 ネイはしばらくの間、自分の命を奪おうとしたその男の下になったまま動くことができなかった。男の体から流れ出る大量の鮮血がネイを濡らした。

 異変に気付いた兵士たちが、すぐにネイに駆け寄り助け起こした。


 地面に横たわるイギリス兵の背中が真っ赤に染まっていた。後ろから銃剣で刺されたのだと見て取れた。

 ネイは周囲を見渡して自分の命を救ってくれた者の姿を求めた。

 すぐ傍に、1人の若い兵士がぽつんと立っていた。顔に返り血をしたたらせて、まるで悪魔を見たかのようにひきつった表情をしている。

「貴官がこの男を?」

 ネイの問いかけにもその兵士は反応しなかった。銃剣を持つ手が震えている。

 新兵だろうか。自分も初めて人を刺したときはしばらく震えが止まらなかったものだ、とネイは思った。いつからだろう、人を殺しても動じなくなったのは。

 ネイはその兵士の肩にそっと手を置いた。

「貴官は命の恩人だ。名を聞かせてくれないか」

「元帥閣下がお尋ねだ。名を答えよ!」

 他の兵士に一喝され、若い兵士ははっと我に返ったようにネイの顔を見た。

「アルノー……、アルノー・ランベールです」

「アルノー、君にどうお礼をしたらよいだろう。——そうだ、これを」

 ネイは自分の左手首からブレスレットを外し、アルノーの手に握らせた。

「これは俺が若い頃、皇帝陛下からいただいたものだ。この先、そのブレスレットがお前を守るだろう。お前が俺を守ってくれたように」

「そのような物をいただく訳には……」

「よいのだ。……俺にはもうよいのだ」

 ネイはアルノーの手を強く握りしめた。


 そこへ騎馬隊が到着した。率いるのは、ネイの危機を目撃して駆けつけてきたデルロンであった。

「危ないところでございましたな。ここは危険です。閣下はもう少し後方へお下がりください」

「下がろうにも馬がないのでな」

 ネイの軍馬は、彼の足元ですでに息絶えていた。

「もっとも、今日馬を失ったのはこれが初めてではないが」

「元帥ともあろうお方が、2度も馬を失うような危険なことをなされますな」

「いや、2度ではない。これが5度目だ」

「5度……」

 絶句するデルロンにネイは豪快に笑った後、ふっと真剣な表情に戻って言った。

「目の前の丘を登ればイギリス軍の本営だ。勝利まであと少しだ。あと少しだけ耐え抜けばよいのだ」

 ネイは丘を見上げた。丘を守るイギリス軍は隊列が激しく乱れている。いや、むしろ隊列を組みうるほどの兵力が残っていないと言うべきだろう。

 何時間にも渡る激闘でピクトンをはじめ多くの将官が命を失い、兵士らは半数以上が戦死もしくは戦闘不能状態にある。弾薬も底を尽きつつあるに違いない。フランス軍に対する反撃が徐々に弱まっていることが、それを物語っている。

 モン・サン・ジャンの丘の上には、栗毛の馬に乗ったウェリントンが、右へ左へとせわしなく駆け回っている。総司令官であるウェリントン自身が直接部隊に指示を出して回らねばならぬほど、イギリス軍の指揮系統は打撃を受けていると見えた。

「ですが我らの側も攻撃する余力は残っておりませぬ」

 デルロンが喘ぐように言った。限界まで追い込まれているのは、フランス軍とて同じであった。丘を登り敵を蹴散らすだけの気力、体力を残している者がどれほどいるであろうか。


 その時、兵士の間から大きな叫び声が上がった。

皇帝近衛隊ガルド・アンペリアルが来たぞ!」

 ネイは南の方角に目を向けた。皇帝直属のフランス軍最強部隊が、一糸乱れぬ足取りで進撃して来るのが見える。

 疲れ果て生気を失っていた兵士たちの顔が一斉に輝きを取り戻した。

「言ったであろう、あと少しだけ耐え抜けばよいと」

「閣下はご存じだったのですか、皇帝近衛隊が来ると」

「皇帝陛下は約束してくださった。危機の時には助けに来てくださると。だから俺は必ずこの時が来ると信じていたのだ」

 ネイは遠くに見えるラ・ベル・アリアンスを眺め遣った。

皇帝陛下万歳ヴィーブ・ランペルール皇帝近衛隊万歳ヴィーブ・ラ・ガルド・アンペリアル!」

 歓喜の声を上げる兵士たちの横を、皇帝近衛隊が駆け抜けていく。

 皆、堂々たる体躯の戦士である。シャルルロワの街へ攻め入って以降、前線に投入されることなく温存されてきた無傷の精鋭部隊がいま、瀕死のイギリス軍にとどめの一撃を加えようとしていた。


「これで我が軍の勝利だ……」

 折れた軍刀を握りしめたまま、ネイはその場に凝然と立ち尽くして丘を見上げた。

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