第47話 皇帝近衛隊(ガルド・アンぺリアル)

 戦場のそこかしこから黒煙が立ち昇っていた。建物や樹木が燃える焦げた臭いに交じって、それとは種類の異なる、不快な臭いが鼻孔を刺激する。その臭いが強ければ強いほど戦闘の犠牲者の多さを示すものであることを、軍人ならば誰もが知っている。


 フランス軍の攻撃を受けたラ・エイ・サント農場の一角から上がった火の手は、にわかに吹き始めた風に乗って激しく炎をあげている。


 農場を巡る戦いは凄惨を極めた。

 アクスブリッジを追って来たフランス軍にイギリス軍も果敢に反撃した。イギリス軍が押し返し、フランス軍がまた攻め寄せる。

 幾度か繰り返すうちに、両軍の距離は次第に縮まり、やがて交じりあった。騎兵は馬を降り、腰のサーベルや短剣を抜いて敵に斬りかかり、歩兵は銃剣で応戦し、ついには武器を失った者同士が、一方の息の根が止まるまで殴り合った。

 目の前の見知らぬ相手をなぜ殺さねばならぬのか。そんな疑問を感じている余裕はなかった。少しでも余計なことを考えた者は、その瞬間、殺す側から殺される側へと立場を転ずることになった。

 フランス軍は、司令官であるネイまでもが白兵戦の最中に身を置き、自ら軍刀を振るった。

 そして、その決死の戦いによってラ・エイ・サント農場はついにフランス軍の手に陥ちたのであった。


 ラ・エイ・サント農場同様、激しい戦闘が繰り広げられた東のウーグモン農場は未だフランス軍に奪われてはいない。だが屋敷は砲撃と火災により屋根が焼け落ち、外壁だけになった無残な姿をさらしている。

 ほとんどの兵士は建物から脱出しているが、自力で動けなくなった負傷兵がまだ建物内に残っているはずだ。

 あの様子では生存は望めないだろう。愛馬コペンハーゲンの背の上で、ウェリントンはそっと目を伏せた。


 18歳で軍人になって以来30年余り。幾多の戦闘に参加し、その度に多くの同胞の死を目撃してきた。それでも未だ人の死には慣れない。

 戦闘後、無数の死体がうち捨てられたままの戦場を見て、人目もはばからず涙したこともある。軍人たるには感受性が高すぎる、と評されることもあった。しかし、兵士の、そして国民の命を守る軍人が、人の死に鈍感であってよいはずがないとウェリントンは思うのだった。


 目を伏せて視覚が閉ざされた分、他の感覚が鋭くなったのであろうか。ウェリントンは周りの空気が微妙に変化したのを感じた。

 銃声と喚声、砲撃に揺れる大地、火薬の臭い。それらに交じって、臭いとも音とも異なる微かな「気配」としか呼びようのない何かが、夕刻の風に乗って運ばれてくる。

 プロイセン軍が到着したのか?


 いや違う。

 一瞬胸の内に芽生えた希望を、ウェリントンは即座に打ち消した。

 瞼を上げると南、すなわちフランス軍陣営の方角に視線を走らせた。

 緩やかに丘を下りながら一直線に伸びるブリュッセル街道。その丘の麓にまでフランス軍は攻め寄せている。そこから更に街道を南へ下ったところで、ウェリントンは視線を止めた。


 それは遠方からでも目を引くほど、整然と隊列を整えた一団であった。

  縦に深い縦隊の陣形を取った部隊。それが幾つも横に並び、全体として横一直線の重厚な陣形をなしている。

 かなりの速度で前進しているが、隊列に全く乱れがない。部隊の練度は隊列に現れる。間違いなく精鋭中の精鋭部隊であると見受けられた。

 ウェリントンは手にした望遠鏡を覗き込んだ。

 インペリアル・ブルーの上衣、白いズボンに身を包み、頭には円筒形のシャコー帽を被った、精悍な顔つきの兵士たち。そしてその頭上には、赤・白・青の三色旗に金の刺繍が縫い込まれた軍旗が翻っている。

 まぎれもなく、ナポレオンの大陸軍グランド・アルメの中でも最精鋭と言われる、皇帝近衛隊ガルド・アンペリアルであった。

 皇帝近衛隊は、戦いの終盤に敵を完全に制圧するために投入される。

「プロイセンが到着する前に一気に片を付けようというのか」

 不利な戦況に追い込まれているウェリントンとしては、なんとかしてプロイセンが来るまで持ちこたえ、態勢を立て直したいところだった。だが彼の淡い希望を、敵はとうに見抜いているようであった。


 西の空では太陽が低く輝き、遠くに見える教会の屋根のシルエットを茜色の空に浮かび上がらせている。夕陽に照らされ金色に煌く大地を、皇帝近衛隊の黒い影が一直線に北へと向かってくる。


「どうやら終幕フィナーレが近づいているようだな」

 ウェリントンは手綱を握る手に力を入れると、いずこへか馬を駆けさせた。

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