第46話 ラ・エイ・サントの死闘(2)

 それはまさに堰を切ったような勢いだった。

 「突撃」を告げるラッパが高らかに鳴り渡り、司令官を失い動揺するピクトン師団めがけてフランス軍の戦列歩兵が突き進んだ。

 初めは果敢に抵抗したピクトン師団であったが、司令官の死という圧倒的な不利は覆しがたく、次第に押され、ついには退却を始めた。

 退くイギリス軍、追うフランス軍。人が、馬が、黒い濁流となって戦場に渦を巻いた。その渦はラ・エイ・サント農場を包み込み、やがて完全に呑み込んだ。

「農場を制圧した!」

 農場にフランス軍の歓声が沸き上がった。


 しかし、その声は直後に悲鳴へと変わった。

 農場を目前にして銃を両手に振りかざして歓喜の声を上げていた兵士が、両手を上げた姿勢のまま、体をくねらせて倒れた。

 それを皮切りに、次々と兵士が倒れ、辺りはたちまち鮮血に染まっていった。

 フランス兵らはしばらくの間、銃弾がどこから飛来するのかさえ把握できないでいた。

 左右を見渡して敵を探すも見当たらず、恐怖に駆られてやみくもに銃を放つ者の隣で、別の兵士が悲痛な叫び声を上げて地面に崩れ落ちる。

 次の瞬間、まるで無数の天馬が天空から駆け降りて来たかの如く、頭上に馬蹄の音が響き渡った。

 兵士たちは音のする方を見上げた。


 勢いよく丘を下って来るのは、赤い制服に身を包み、葦毛の馬を駆る騎兵の一団であった。

「ピクトンの仇は我らが討つ!」

 先頭で声を張り上げたのは、イギリス軍騎兵軍団長のアクスブリッジ中将であった。

 フランス軍の砲撃を避けるため、そしてフランス軍を油断させるため、イギリス軍は相手からは見えない丘の裏側の斜面に、この騎兵隊を待機させていたのである。

 騎兵隊は赤い雪崩となって丘のふもとへ押し寄せて来た。


「ひるむな、陣形を整えよ!」

 馬上で指揮を執るデルロンが叫んだ。

 その声で気を取り直したフランス軍兵士が銃を構える。その指が引き金を引くと同時に、イギリス軍騎兵の幾人かがのけ反り、疾駆する馬上から落下した。

 だが騎兵たちはたじろがなかった。地面に倒れた仲間の体を飛び越え、あるいは踏みつけ、フランス兵のただ中へ飛び込んでいった。


 イギリス軍騎兵のサーベルが鋭い光を放つ。その一閃ごとに悲鳴が空気を切り裂き、血しぶきが地を濡らした。

「弱卒に構うな。敵将を討てば雑兵はおのずと壊滅する」

 アクスブリッジの声が響いた。

 赤い制服のイギリス騎兵隊が、紺の制服を着たフランス歩兵隊のただ中を真っすぐに突き進んで行く。フランス軍はそれに抗うことができず、左右に逃げ散っていく。

 離れた場所から見れば、その様子はさながら紺の薄布を赤い鋏で裁っているように見えたであろう。


「そのまま突撃して来るか——」

 後方から戦況を見守っているネイが呟いた。味方が不利な形勢に置かれているにもかかわらず、その口調はどこか乾いていた。

 イギリス騎兵隊が向かう先には、フランス軍騎兵師団が大きく横に広がって展開していた。

「集結せよ!」

 デルロンの命令一下、左右の騎兵が一斉に中央に向けて動き始めた。

「馬鹿め、敵前で陣形を組みかえるとは。隙だらけだぞ」

 アクスブリッジは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「今なら敵は防御が手薄。一気に薙ぎ払え!」

 イギリス軍の騎兵たちは馬を駆ったまま、背中のカービン銃に手を伸ばした。

 しかし次の瞬間、彼らは信じられないものを目にした。


 中央へと集まっていくフランス軍騎兵の背後から、多数の大砲が現れたのである。フランス軍騎兵が移動を完了したとき、その左右には大砲の壁が出現していた。

 左右の大砲は、それぞれが砲口を斜め前方の中央方向に向けて並べられている。そしてその弾道は、まさにイギリス軍のいる辺りで交差するように計算されていた。

「ク、十字砲火クロスファイア……」

 アクスブリッジは、自分が勢いに乗って前に出過ぎていたことに気付いた。

「退け!」

 先ほどまでの勝ち誇った表情から一転して、アクスブリッジの顔には焦りと恐怖が入り混じっていた。


「これほど見事に掛かってくれるとはな」

 混乱の坩堝るつぼに落ちていくイギリス軍を遠目に見ながら、ネイがつぶやいた。

 ラ・エイ・サント農場を攻めれば、それを守らんとして丘の影から騎兵軍団が出張って来ることは容易に予測できた。そこで、あらかじめデルロンに命じて芝居を打ち、敗走すると見せかけて敵を包囲網に引きずり込んだのである。騎兵隊が横に広い陣形を取っていたのは、背後の大砲を隠すためであった。

 これこそが、ナポレオンがネイに語った「土に隠れたモグラどもをおびき出す策」であった。


「撃て!」

 大地を揺るがすような咆哮とともに、左右に並んだ大砲が次々と火を噴いた。

 2つの方向から低い射角で放たれた弾丸が、格子状の弾道を描いてイギリス軍に襲い掛かる。

 砲弾の直撃を受けた者は、死の恐怖を感じる間もないうちに、あらゆる恐怖から永遠に開放された。

 直撃を免れた者は、目の前で同胞の肉体が次々と四散する凄惨な光景を目の当たりにすることになった。

 熟練の兵団であれば、こうした状況下でも冷静に隊列を組み直し、整然と退路を切り開いたであろう。

 だが、革命戦争以降永く続いた戦乱によって、熟練兵の多くは命を落としており、イギリスのみならず各国は新参兵を十分な訓練もないまま戦場に送り込んでいた。そのため、目の前で人が死ぬのを初めて見たという者も少なくなかったのである。

 彼らはもはや仲間を気に掛ける余裕も失い、我先にと退却を始めた。


 しかし、絶望の神は彼らを逃しはしなかった。

 イギリス兵が逃げる先には、逃げ散ったはずのフランス軍歩兵が隊列を組んで待ち構えていたのである。その手に握られたマスケットの先端には、銃剣が鈍い光を放っている。

 アクスブリッジは、先ほど歩兵の追撃命令を出さなかった自分を呪った。

 一斉に銃剣が突き出された。金属がぶつかり合う音。人馬の悲鳴。怒号。傷口から噴き出す血。崩れ落ちる兵士。

 そこへ追い打ちをかけるように、フランス軍の胸甲騎兵部隊が軍刀を振りかざして怒涛の如く押し寄せた。

 刀の一薙ひとなぎごとに、血しぶきが舞い、馬上から人の姿が消え、地上には死体が数を増していった。


 ネイは指揮杖を振り上げ、真っすぐ前方を指した。

「ラ・エイ・サント農場を占拠せよ。今度は小細工はいらぬ。この勢いのまま正面から攻め落とせ」

 ネイは自ら胸甲騎兵隊の先頭に立ち、ラ・エイ・サント農場に向けて突撃していった。

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