第45話 ラ・エイ・サントの死闘(1)

 ワーテルローの戦場には、ウーグモン農場と同様に臨時の軍事拠点として使用されている農場がいくつか点在する。その1つがラ・エイ・サント農場である。

 戦場の中心を通るブリュッセル街道沿いに位置し、ナポレオンが本営を置くラ・ベル・アリアンスからわずか数100メートルの距離にある、イギリス軍のまさに最前線基地である。


 ラ・エイ・サント農場防衛の任務を授かっていたのは、イギリス軍に所属するドイツ人部隊KGLであった。

 なぜイギリス軍の中にドイツ人部隊が存在するのか。そこにはイギリスの国内事情の外に、ナポレオンの存在が深く関わっている。

 時はワーテルロー会戦より約1世紀前の1700年代初頭に遡る。

 当時イギリスでは、女王アンが跡継ぎを残さず死去したため、国内に王位継承者が不在となる事態に直面していた。

 そこで、王家の血筋を引くドイツのハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが、国王ジョージ1世として迎えられ、以後、イギリスとハノーファー選帝侯国は同じ国王を戴く同君連合となった。

 しかし約1世紀の後、そのハノーファー選帝侯国にナポレオン軍が侵攻した。ハノーファーは占領されたが、軍の将校・兵士は海を越えてイギリスに逃れ、国王直属の部隊として組織された。

 それがKGL(キングス・ジャーマン・リージョン)なのである。

 こうした経緯から、KGLはドイツ人部隊ではあるものの、国王に対してはイギリス人部隊にも引けをとらない忠誠心を有している。


 ラ・エイ・サント農場を背後に守るようにして展開するKGLに、デルロンの部隊が襲いかかった。

「撃て!」

 号令とともに横一列に並んだ大砲が一斉に火を吹き、雷鳴のごとき轟音が兵士達の鼓膜を激しく震わせる。戦いに慣れない新兵なら、この音だけでうずくまってしまうほどの恐怖を覚えるであろう。


 フランス軍が得意としていたのが、跳弾射撃と呼ばれる射撃法であった。

 跳弾射撃では弾丸は地面とほぼ水平に撃ち出され、高速で地面をバウンドしながら敵部隊へと突入していく。人の背丈ほどの高さまでしか跳ね上がらないため、敵兵の頭上を越えてしまうことなく高い命中率で敵を捕らえることができる。さらに、弾むたびに石片が周囲に飛散し、弾丸の直撃を免れた者にもダメージを与えるのだ。

 何発もの砲弾が土煙をあげながら向かってくる様子は、敵兵にとっては相当な恐怖であり、心理的な威圧効果もあった。


 ナポレオン戦争を通じてヨーロッパ諸国を苦しめてきたフランス軍の跳弾射撃だが、このワーテルロー会戦では様子が違った。

「弾が敵陣に届きません!」

 砲兵の悲痛な叫びが響いた。

 前日の雨で地面はぬかるんでいる。そのため砲弾は着地のたびに著しく速度を落とし、敵に届く前に止まってしまうのである。

「やむを得ぬ、平射射撃に切り替えよ」

 デルロンの判断は素早かった。

 いったん下した命令でも状況に応じて変更できる柔軟さは、司令官には欠かせない資質である。

 2日前の戦いでは戦場間を彷徨い、物笑いの種となった彼であるが、ナポレオンから1個軍団2万の兵を任される司令官だけあって、決して無能ではなかったのである。


 命令を受け、砲兵が砲尾に付いた射角調整用のネジを回して砲身の角度を上げた。

 平射射撃では、砲弾をバウンドさせることなく敵を狙う。弾丸は放物線を描いて飛ぶため、標的との距離から発射角度を計算して撃たねばならず、跳弾射撃に比べ命中率は落ちる。

 だが士官学校時代に砲兵科に在籍していたナポレオンによって組織されたフランス軍は、砲兵技術においてヨーロッパ随一であった。

 放たれた砲弾は次々と敵を捉え、KGL兵を混乱に陥れていった。


 一発撃ち終えるごとに砲兵は、熱くなった砲身を水で冷やし、燃え殻を取り除く。新たな火薬と砲弾を詰め、照準を合わせ直し、再び砲弾を発射する。

 かつて大陸軍グランド・アルメがヨーロッパ最強を誇った頃には、熟練の砲兵がこの一連の作業を慣れた手つきで素早く行ったものだった。しかしながら熟練兵の多くが失われた今となっては、砲兵の動作にも手際の悪さが目立つ。

 それでも大砲の数において相手を上回るフランス軍は、火力でイギリス軍を圧倒した。何度か砲撃を繰り返すうち周囲は白煙に包み込まれ、砲兵は標的を見失った。

 すかさずデルロンが指令を飛ばす。

「歩兵、前へ!」

 歩兵連隊が白煙の中、前に進み出た。前進しつつ、砲撃の混乱から立ち直れないKGL兵に向けてマスケットの斉射を浴びせかける。

 ラ・エイ・サント農場の防御は一気に崩れ、KGL兵は散り散りに農場後方の丘を駆け上っていく。


 農場の近辺には、トーマス・ピクトン中将率いる1個師団が陣を布いていたが、逃げ崩れる味方に押されて退却する兵士が続出し、陣形に乱れが生じた。

「退くな、退いてはならん!」

 ピクトンが怒声を響かせる。だが「20本のトランペット」と形容されるその怒声すらも、フランス軍の銃声に虚しくかき消された。


 直後、ピクトンの首筋を一発の弾丸が貫いた。

 ピクトンは数瞬の間、痛みを堪えるように静止した後、無言のままその巨体を馬上から滑らせた。

 どさりという鈍い音をたててピクトンは地面に横たわった。

 巨躯が斃れる姿を、敵味方を問わず多くの兵が目撃した。

 軍服を好まず、戦場にあっても私服を無造作に着用していたピクトンは、その独特の風貌と人並み外れた体格で、人馬入り乱れる戦場でもひときわ目を引いていたのだ。


「ピクトン中将が討たれた!」

「敵の司令官を討った!このまま農場を落とすぞ!」

 イギリス軍からは悲鳴が、フランス軍からは歓声が沸き起こった。

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