第42話 ラ・ベル・アリアンス(一)

 戦場の南の丘に、ホテル・ラ・ベル・アリアンスという名の宿屋がある。

 街道を旅する者はここで、ちょっとした食事と酒、そして一晩の寝床を得る。

 同時に、集落から少し離れた場所にあるこの宿は、周辺の村の男たちにとって、妻の目を盗んで仲間と酒を酌み交わせる息抜きの場でもあった。

 いつ頃からあるのか、建物は古い。化粧漆喰を施した白い外壁はその一部が剥がれ、下地の煉瓦が露わになっている。素焼きの瓦を葺いた屋根は、傷んだ箇所だけを葺き替えたのか、所々色が異なっている。規模も小さく、一見すると農家の住宅と見間違うほどである。


 ホテルとは名ばかりのその質素な宿に、フランス軍本営はあった。


 ラ・ベル・アリアンスで最も豪華な客室、といってもダブルサイズのベッドと机、そしていくつかの調度品が置かれただけの部屋で、皇帝ナポレオンは2つの報告を相次いで受け取った。


 1つ目の報告は、ウーグモン農場に突入した第1軽歩兵連隊が全滅したという報せである。


 そしてもう1つは、敗走するプロイセン軍を追撃するために昨日派遣したグルーシーの軍が、いまだプロイセン軍に追い付くことが出来ていないとの報せであった。


「攻撃が手ぬるい。榴弾だ、ありったけの榴弾を撃ち込み、敵を建物ごと葬り去れ」

 これは1つ目の報告に対する言葉である。

 この当時、大砲の弾として主流だったのは球形弾と呼ばれる単なる鉄の球であった。

 それに対し、榴弾とは鉄製の球体の中に火薬を詰めた砲弾のことである。火薬の爆発により破壊力が増すとともに火災を引き起こすこともできるため、建物等への攻撃に威力を発揮した。

 球形弾に比べて弾数に限りがあるが、これをナポレオンは惜しみなくウーグモン農場に投入するよう命じたのである。


「プロイセン軍はどこにおるのだ」

 2つ目の報告を聞いたナポレオンは、顔を歪めてスールトに怒鳴った。

「ワーヴルの方に向かったのではないかとのことであります」

「ではないか?正確な情報は掴んでおらぬということか。それでは敵が退却するのか、こちらへ進軍して来るのかも分からぬのか」

「申し訳ございませぬが、現在のところ把握できておりませぬ」

「それを把握するのが参謀の役割であろう。ベルティエであれば、とっくに八方へ偵察を出しておるぞ」

 ナポレオンは、かつての参謀の名を挙げて顔をしかめた。


 フェンテーヌブローでネイとともに退位を迫ったベルティエではあるが、それまでは参謀として常にナポレオンの傍にあり、片時も離れることがなかった。情報収集能力に優れており、ナポレオンが欲するであろう情報をあらかじめ収集し、問われる前に提供した。

 のみならず、難解なナポレオンの指示を即座に理解し、それを他の者にも分かりやすい言葉に置き換えて伝えることのできる稀有な才能を有する将であった。

 そのベルティエは、ナポレオンが皇帝に復位した後、亡命先のバイエルンで窓から転落して死亡した。自殺とも事故死とも言われる。

 ナポレオンはベルティエの後任に据えたスールトにも彼と同様の働きを期待した。されど参謀としての経験の浅いスールトに、それは過重な期待だったのである。


「それで、グルーシーはどこで何をしておるのだ」

「プロイセン軍を追って鋭意進軍中であります」

「昨日1日かけてまだ追いつけぬのはどういう訳だ」

「申し訳ございませぬ。昨日の嵐のため進軍が遅れておるとのことでございます」

「言い訳はよい。グルーシーには十分な兵を与えてあるのだ。ゆめゆめそれを無駄にするでないぞ」

 プロイセン軍を追うグルーシーの軍勢は、ヴァンダムの第3軍団とジェラールの第4軍団など総勢3万3000人である。これほどの軍がもし戦闘に参加できないとなれば、一昨日のデルロンの件以上の損失である。

「プロイセン軍を掃討し後顧の憂いを断つためにグルーシーを差し向けたというに、相手に追いつけず、その動きを知ることすらできぬとは何たることか」

 ナポレオンが両手の拳で机を叩き、スールトは黙って下を向いた。

「こうなっては、プロイセン軍がここへ来襲する前にイギリス軍を殲滅しておかねばなるまい。私が前線に出て一気に決着を着ける」

 ナポレオンは椅子を蹴り立ち上がると、足早に出入口の扉に向かった。その表情は固く、眉間の皺には憂いが刻まれているようにも見えた。


 ドアノブに手を掛けようとしたときであった。

「皇帝陛下!」

 呼び止める声に、ナポレオンは足を止めた。

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