第26話 ジュミオンクール農場(2)

——俺は死んだのか?


 ネーデルラント第5民兵大隊のウェステンベルク中佐は、恐る恐る目を開けた。

 何も見えない。ぼんやりとした闇が広がるのみである。


——これがあの世か。頭が押しつぶされるように痛い。死んでも痛みを感じるものとは知らなかった。


 顔の上に何かがし掛かっているのだと気付くまでに少しの時間を要した。

 力を振り絞ってそれを押しのける。目の前に薄明かりが見えた。

 額から流れ落ちる血を拭いながら、ゆっくりと起き上がる。


 顔の上にあったものの正体を知り、どきりとした。彼の横には、倒れた兵士の体が横たわっていたのである。

 その兵士の顔は分からなかった。分かりようもない。首から上がないのである。哀れにも、頭部に砲弾の直撃を受けたのであろう。顔は分からないが、つい先刻まで目の前にいた幾人かのうちの1人であることは確かだ。誰とも知れぬ部下のために軽く祈りを捧げ、ウェステンベルクは立ち上がった。

 辺りを見渡す。流血と砂埃のせいで視界は極めて悪い。かろうじて見えるのは崩れ落ちた煉瓦の壁、そして折り重なるようにして倒れている兵士の姿だ。皆、ぴくりとも動く気配はない。


 開戦直後からフランス軍は、このジュミオンクール農場に集中的に砲火を加えてきた。間断なく降り注ぐ砲弾は、まるでおもちゃの家をハンマーで叩き壊すがごとく、屋根を貫き、外壁を突き破り、中にいる兵士を瓦礫の下に生き埋めにした。

 ウェステンベルクが指揮を執っていた部屋も例外ではなかった。

 鼓膜を突き破るような轟音が聞こえた次の瞬間には、彼の体は床に叩きつけられていたのである。


 彼の部隊は、ほとんどが十分な訓練を受けていない民兵から成っていた。それでも予想以上の健闘を見せ、一時はフランス軍を押し戻した。

 しかしながら数の上での劣勢は覆しがたく、今や壊滅の一歩手前で辛うじて留まっている状態になっていた。


「誰かいないか」

 砂埃にかすむ屋敷の奥に向かって大声で呼びかけた。すると、小さく応える声があった。よろめきながら瓦礫の中を進むと、崩れた壁に半ば埋もれるようにして倒れている者がいた。

「クラーセン!」

 倒れていたのは彼の副官であった。ひどい怪我をしてはいるが、意識ははっきりしているようだ。

「大丈夫か」

「足をやられたようです。それより、味方の状況は?」

「悲惨なものだ。そこらじゅう死体だらけだ。退却するぞ、このままでは全滅する」

「私は歩けません。足手まといになるだけですから、ここに残ります。中佐は気になさらず、残った者を連れて行ってください」

「馬鹿やろう。お前がいなくなったら俺が困るんだよ。力ずくでも連れて行くぞ」

 そう言うとウェステンベルクは、クラーセン少佐の血まみれの体を抱え上げた。肩に腕を回し、歩き始める。

「中佐……」

 ウェステンベルクの肩で、クラーセンが弱々しく言葉を発した。

「中佐が私のことをその様に思ってくださっているとは……」

「戦闘中に酒を飲むのを見逃してくれる副官など、お前くらいだからな」

「私じゃなくて酒のためですか」

 呆れたようにクラーセンはつぶやいたが、その頬には、血とも汗とも違うひとすじの雫が流れ落ちていた。


「と言ったものの、さて、どうやって脱出したものかな」

 まずは残る味方を集め、部隊を再編制せねばならない。

 屋敷内のあちらこちらから、人の叫び声や銃声が聞こえる。まだ戦う余力のある兵士が少なからず残っている証である。


 クラーセンの体を支え、瓦礫に足を取られながら歩いていると、2人に気付いた士官が駆け寄ってきた。

「ご無事でしたか、中佐」

「ここから退却する。屋敷内に残る兵を出入口付近に集めよ。戦える者は全てだ」

「戦えぬ者は?」

「戦えぬ者は……」

 ウェステンベルクは、ちらりとクラーセンを流し見た。

「できる限り連れてゆく。動ける者が手を貸してやれ」

 今の状況では、満足に動ける者でさえ無事に抜け出せる保証はない。

 そのうえ戦力にならない者を抱えては、相当困難な脱出行となるのは明白であった。

 司令官としては心を鬼にして、戦える者を無事に退却させることを最優先とすべきであるかもしれない。

 しかし、ウェステンベルクはそこまで冷徹にはなれないのだった。

 そんな彼を、雲間から射し込む柔らかな光を見るような目でクラーセンが見ていた。

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