第25話 ブラウンシュヴァイク公

 街道は、森の木々の間をすり抜けるようにして、南へと延びていく。

 森は深く、そして静かに横たわる。

 降り注ぐ日差しも、高く生い茂る枝葉に遮られて地表にまでは届かない。新緑の若葉を透かした光は、萌黄もえぎ色の薄紗はくさとなって柔らかく森を包み込んでいる。


 その中を、全身を深黒の軍服で包んだ男が、黒馬を駆って走り抜けていく。

 襟元や袖口にあしらわれた鮮やかな青が、いかにも暑そうな風貌にかろうじて涼しげな印象を与えている。

 頭には彼のトレードマークともなっている黒いベレー帽を乗せている。こちらも青い縁取りが入っており、無表情な彼の厳然とした雰囲気を幾分だが和らげている。

 背後には彼と同じく黒い軍服を身にまとった騎兵、歩兵、砲兵が列をなして続く。

 ブラウンシュヴァイク公国の軍である。

 彼らはその服装から、シュヴァルツェ・シャール(黒軍)と呼ばれ、味方からは畏敬、敵からは畏怖されていた。

 頭に被った黒いシャコー帽には、大きな銀の髑髏どくろが、初夏の明るい日差しを払いのけるかのように鋭い輝きを放っている。


 木立を抜ける薫風が、若葉の香りとともに、森の外からかすかなざわめきを運んで来た。

 その男、黒公爵ことブラウンシュヴァイク公爵フリードリッヒ・ヴィルヘルムは、古代ギリシャのゼウス像を想わせる無表情な強面こわおもてをかすかに歪めた。

 兵舎で眠りについていた7000人近くにも及ぶ兵士を起床ラッパで叩き起こし、ブリュッセルを発ったのは夜明け前のことだ。

 それからほとんど休みなしで、ブリュッセル街道をカトル・ブラに向け南進してきた。

 にもかかわらず、森の外のざわめきは、彼が到着する前に戦闘が始まってしまったことを表している。これでは全軍の指揮を執るウェリントン元帥に申し訳がたたない。

 兵が参集するのに時間がかかったせいもあるが、遅れた理由の一端はヴィルヘルム自身にもあった。


   *


 昨晩、リッチモンド公爵邸で開かれた舞踏会を辞したヴィルヘルムは、部下たちが待つ兵舎へは直行せず、ひとりブリュッセルに借りている自邸へと戻った。


 出迎えてくれたのはメイドのシャルロッテだった。

 淡い栗色の髪を後ろに束ね、薄紅色のドレスに白いエプロンを着た姿は、彼女が初めてブラウンシュヴァイク邸に来た時の、まだ10代の少女だった頃と変わらず可憐だった。

 荒野に咲いた純白の花のような無垢な笑顔に、出陣前の張り詰めた気持ちが和んだ。

 8年前に妻のマリーが亡くなって以来、幼子2人を抱えて、ただうろたえるばかりのブラウンシュヴァイク公に代わって家庭内を切り盛りしてくれている。息子たちにとっては、姉のような母親のような存在だった。

 決しておしゃべりではないが明るく元気な声がこの家を華やかにしていた。


「子供たちは?」

「お休みになられましたわ。お父様がお帰りになるまで起きていると頑張っていらしたのですけど」

 子供部屋には、11歳と9歳になる2人の息子が、ベッドの上で寝息を立てていた。

 兄のカールは本を読むのが大好きな大人しい子だ。反対に弟のヴィリーはやんちゃで、将来は軍人になりたいと言っている。喧嘩をすると、いつも弟が勝つ。

 ヴィルヘルムは2人の髪を優しくなでた。

 不意に、胸の底をぐいと掴まれたような不安に襲われ、ヴィルヘルムは手を止めた。もし自分がいなくなったら、子供たちはどうなるだろう。子を持つ軍人ならば誰もが考えたことがあるはずだ。


 その胸中を察しているのか、シャルロッテはただ黙って部屋の隅に立っていた。

「紅茶を一杯くれないか」

 はい、と小さく返事をしてシャルロッテは台所へと消えた。

 彼女が紅茶を淹れる間、ヴィルヘルムは自分の部屋の椅子に腰かけ、何かを考え込むようにじっと動かなかった。


「お茶が入りました」

 銀のトレイに紅茶の入った白いポットとカップを乗せて、シャルロッテが入って来た。

「シャルロッテ」

「はい」

 静かに紅茶を差し出すシャルロッテに、ヴィルヘルムはつくろったような声で話しかけた。

「この戦いが終わったら……」

「なんでしょう?」

 シャルロッテが不思議そうな目でヴィルヘルムの顔を覗き込んだ。

 すぐ目の前にシャルロッテの顔がある。彼女にとってそれは無意識の行動かもしれない。だがヴィルヘルムは自分の鼓動が早くなるのを感じた。

「……私は軍人を辞める」

 何を言っているのだ、俺は。ヴィルヘルムは己の不器用さを呪った。

 シャルロッテが一瞬、落胆の表情を浮かべたように見えたのは彼の思い込みだろうか。彼女はすぐに笑顔を浮かべた。

「それは結構ですわ。今までよりもお子様たちとお過ごしになる時間が増えて、お子様たちもお喜びになるでしょう」


 突然、ヴィルヘルムはシャルロッテを抱き寄せた。

「ご主人さま……?」

「待っていてくれ」

 シャルロッテを腕に抱きながらも、ヴィルヘルムの口調はどこまでも不愛想だった。

 もう少し気の利いた言い方はできないものかと自分でも思う。

「はい……」

 シャルロッテはうつむきながら小さな声で応えた。

「顔を上げてくれ」

 戸惑い気味に見上げた小柄なシャルロッテを、ヴィルヘルムはダークブルーの瞳で見つめた。

 シャルロッテのグリーンの瞳が小刻みに震えた。

 そして彼女は瞳を閉じた。

 ヴィルヘルムはそっと彼女の口元に唇を近づけた。何かを覚悟し、待ってるような息づかいと、胸の鼓動までが聞こえてきた。


 その唇が触れようとする直前、ヴィルヘルムは突き放すようにしてシャルロッテから離れた。

「出発する。子供たちをよろしく頼む」

 普段の険しい表情に戻った黒公爵は、漆黒の上衣を素早く羽織った。


   *


 意識しないようにすればするほど、昨夜の出来事が思い出された。

 軍人たる者が私情に流されて戦闘に遅れるとはあるまじき事、と頭の中で自分を叱りつける。が、それが心からの思いでないことを自分でもよく分かっている。

 雑念を振り払うかのように馬を駆った。


 森を抜けた。

 眩しい日差しが網膜を刺激し、一瞬目の前が真っ白になった。同時に、ざわめきは明確な砲声と喚声へと変わった。

「急げ!」 

 大きく叫ぶとヴィルヘルムは馬腹を蹴った。馬が加速し、部下たちが慌てて後を追った。

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