第16話 黒公爵
「ブラウンシュヴァイク公殿下、ようこそお越しくださいました」
「……ああ、どうも。お招きいただいて光栄です」
公爵夫人に話しかけられて、ブラウンシュヴァイク公爵フリードリヒ・ヴィルヘルムは、不愛想に答えた。機嫌が悪いわけではない。彼自身は、これでも精一杯愛想よく答えたつもりだった。
鋭い眼光と、もみあげから顎にかけて長く伸ばした髭。
それだけでも十分に近づきがたい雰囲気を醸し出しているが、それ以上に彼を特徴付けているのが、全身を黒で統一した軍服だった。
左胸に付けた記章には、銀色の
明らかに、この華やかな社交の場には相応しくない風貌である。しかし、この黒い服こそが、ヴィルヘルムのトレードマークであった。
彼は1年中、常に黒い衣服を身にまとい、その姿から黒公爵の異名をとっていた。
「こちらは娘のジョージアナでございますわ」
公爵夫人に紹介されて、ジョージアナは右足を引き軽く膝を曲げて挨拶をした。
「お会いできて光栄ですわ、殿下」
「……ああ、どうも。お招きいただいて光栄です」
ヴィルヘルムが先ほどと全く同じ言葉を返したのが、リッチモンド公爵夫人には可笑しかった。
「素敵なお召し物ですね、よくお似合いですわ」
ジョージアナがことさらに明るい声で、ヴィルヘルムの黒づくめの衣装を褒めると、不愛想な公爵は、戸惑ったように不器用な笑みを浮かべた。
「殿下はいつも黒い服をきていらっしゃるとお聞きしておりますわ。どうしてですの」
「ジョージアナ、失礼なことをお聞きするんじゃありません」
リッチモンド公爵夫人がたしなめた。
「構いませんよ」
ヴィルヘルムは無表情のまま言った。
「私の父は優秀な軍人でした」
苦い記憶を噛みしめるように、ヴィルヘルムはぽつりぽつりと話し始めた。
「父はフランスとの戦いで数々の戦果をあげ、プロイセンの元帥にまで昇進しました。強い父は私の憧れであり、人生の目標でした。しかし6年前、父はナポレオンとの戦いで命を落とし、そして我が公国もフランスに奪われたのです」
ヴィルヘルムは、鋭い目つきのまま天井を見上げた。その目は微かに潤んでいる。
「国を取り戻し、ナポレオンを葬り去り、父の無念を晴らすその日まで、私はこの黒い服に身を包んで人生の全てを戦いに捧げる。そう決めたのです」
「そうでしたの。それはお気の毒でしたわ。それはそうと……」
思わぬ湿っぽい話になり、ジョージアナは慌てて話題を変えようとしたが、この厳めしく口数の少ない軍人にふさわしい話題がすぐには見つからなかった。彼女は助けを求めるように母親の顔を見た。
「奥のダイニングルームには料理も用意してございます。どうぞ召し上がっていってくださいな」
リッチモンド公爵夫人は愛想よく言った。ヴィルヘルムにとっても、ここにいるより食事をしている方が気が楽だろう。この黒公爵が女性をダンスに誘うとは思えなかった。
しかし彼女の明るい笑顔の前でも、ヴィルヘルムの表情から険しさは消えなかった。
「ここへ来る前に嫌な噂を耳にしました。ナポレオンの軍が、今までにない規模の攻撃を仕掛けてきたというのです」
「えっ」
公爵夫人とジョージアナは息をのんだ。
「今はブリュッヒャー元帥が迎え撃っているそうです。ここにいる者たちも、近いうちに戦場に向かうことになるでしょう」
「そんな……」
もちろん、いつかこの日が来ることは分かっていた。だからこそ、彼女らはこの舞踏会を開いたのである。だがそれが今日であるとは。うつむくジョージアナの肩に、ヴィルヘルムが
「あくまで噂ですよ。まだそうと決ったわけではありません。仮に本当だとしても、我々にはウェリントン公がいらっしゃる」
ヴィルヘルムの目からは鋭さが消え、戸惑いの色が浮かんでいた。
ちょうどその時、リッチモンド公爵の明るい声が部屋中に響いた。
「皆さん、世界を救う英雄のご到着ですぞ」
「噂をすれば、ですね」
ヴィルヘルムは窮地に援兵を得たように、ほっとした表情を浮かべた。
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