第15話 開戦前夜の舞踏会

 ブリュッセルの中心部にあるリッチモンド公爵邸で開かれた舞踏会には、ナポレオンとの戦いのためにブリュッセルに駐留している各国の将校とその家族など、数多くの人々が招かれていた。


 主催者であるリッチモンド公爵夫人は、四十代半ばの快活な女性である。彼女は、夫のリッチモンド公爵や娘たちとともに、次々に訪れる来客をにこやかにもてなしていた。


 会場となった屋敷はもともと、ある馬車職人の自宅兼作業場だった建物だ。

 それをイギリス軍人であるリッチモンド公爵が、ブリュッセルに滞在している間の住まいとして借りているものである。

 気立ての良いリッチチモンド公爵夫人は、夫の戦友たちを激励するため、娘たちと一緒に屋敷の壁紙を張り替え、美しい花輪を飾りつけ、シャンデリアを吊るし、小さいながらも舞踏場に仕立て上げて、舞踏会を開催したのであった。

 手作りのささやかな舞踏場である。だが出征を控えた軍人に対する公爵夫人らの温かい心遣いに、招かれた客人たちは胸を熱くした。


 室内が人々の歓談の声に満たされた頃、楽隊が奏でる軽快な音楽に乗せて舞踏会が始まった。凛とした軍服姿の男たちが、きらびやかなドレスに身を包んだ女性の手を取りダンスに誘う。誘われた女性は笑顔でそれに応え、優雅な足取りでダンスフロアーへ向かう。


 楽しげに踊る人々を見て、リッチモンド公爵夫人は安堵の表情を浮かべた。徐々に迫るフランス軍の脅威に神経をすり減らす日々である。戦争を避けられないとしても、せめて今日だけは、誰もがそれを忘れて楽しい時を過ごして欲しいと彼女は願っていた。


   *


 時は遡ってその日の朝のことである。

 救いを求めるブールモンの叫び声が遠ざかると、ブリュッヒャーらは直ちに入手した作戦指令書を広げた。

 フランス語で書かれた指令書をドイツ語に翻訳する作業を経て、徐々にナポレオンの戦略の全貌が明らかになっていく。それにつれ、集まった者たちのざわめきが大きくなっていった。


「……うむむ、敵ながら見事な戦略じゃ」

 指令書を読み終えたブリュッヒャーは、豊かな口ひげをなでながら唸った。

「元帥閣下、感心している場合ではございませぬ。敵の狙いがこの通りであるならば、各地に分散している我が国の部隊を一刻も早く1か所に集め、応戦態勢を整えねば」

 グナイゼナウが冷静な声で言った。

「シャルルロワに集めるのだな」

「いえ、シャルルロワは放棄し、かの地に駐屯する兵は全て後方に呼び戻します」

「戦わずして退却させるというのか」

「戦ったところで、彼我の兵力差を考えれば半日と持たず陥落するでしょう。我々が今から向かっても間に合いませぬ」

「じゃが……」

「それより、この状況を一刻も早くブリュッセルにおられるウェリントン公爵に連絡するべきかと」


 ブリュッヒャーは暫く黙り込んでいた。前進元帥マルシャル・フォアヴェルツとしては、「退却」は最も嫌う言葉であったが、他に選択の余地はなかった。

「そうじゃな。ウェリントン公は情に厚く、しかも有能なお方。我が軍の危機と聞けば、すぐに駆けつけて、ナポレオンを蹴散らしてくださることじゃろう」

 ブリュッヒャーは自らに言い聞かすように言ったが、ウェリントンが耳にすれば、過剰な期待に当惑したことだろう。


「ところで、間違いのないように言っておくが——」

 まだ諦め切れぬといった表情でブリュッヒャーが言った。その手には、いつの間にかジンのボトルが握られている。

「退却させるのではないぞ。後方へ前進させるのだ」

 ブリュッヒャーは一気にジンをあおった。

 やれやれ面倒なお人だ、とグナイゼナウは胸の内でつぶやいた。

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