第12話 前進元帥

 東の空が薄紅うすくれないに染まっている。

 地平から漏れる曙光しょこうが夜気を拭い去り、モノクロームの景色が少しづつ色彩を取り戻していく。

 街の南を流れるサンブル川から立ち上る朝霧は、風に流されてシャルルロワの街を覆い、石畳の道をしっとりと湿らせている。


 全体が要塞としての機能を最優先に設計されているこの街は、不愛想なほどに無機質だ。行き交う人々の大半は軍人である。

 もちろん中には民間人もいるが、多くは武器商人、酒場の主、娼婦など、兵士を相手に商売をする者である。

 いずれも朝早くから働く商売ではない。そのため、普段ならこの時間は通りに人気ひとけはなく、閑散としているはずだった。


 しかし今朝は違う。

 銃を手にした兵士がせわしなく走り回り、騎馬の蹄が石畳を叩く音が、煉瓦造りの兵舎の壁に反響する。大砲を曳いて歩く馬の姿も見える。

 街の各所には、羽を広げた黒鷲をあしらったプロイセンの軍旗が風にはためいている。

 夏至が近づき、1年で最も昼が長いこの時期、緯度の高いネーデルラント地方では、太陽は午前4時すぎに東の空に顔を出し、午後9時近くにようやく西の地平に沈む。

 日の出までにはまだ少し時間がある。

 しかし、兵士たちは全員がとっくに叩き起こされ、戸外に整列していた。


 敵襲の報告を受け「またいつものこと」とのんびり南の城壁に向かった将校は、薄明の中に隊列を整えて並ぶ、数え切れぬほどの軍勢の影を見出し、戦慄した。

 これまでにもフランス軍が小規模な挑発行為を仕掛けてくることは頻繁にあった。

 そのたびにプロイセン軍が出撃し、フランス軍は戦いもせず引き上げる。その繰り返しだった。最近はそれにも慣れて、半ば儀式と化していたところだった。

 だが今回はこれまでとは桁違いの規模である。敵が本格的な軍事行動に出たことは明らかであった。

 シャルルロワに駐屯する兵力は3万。攻め寄せるフランス軍は、その数倍にのぼると思われた。


 この危機的な状況はすぐさま、シャルルロワ駐屯軍が属するプロイセン第1軍団のツィーテン将軍を通じて、フランスとの国境地帯に向かって進軍中の総司令官へと伝えられた。


「敵が目の前に迫るまで気づかぬとは。何をしておったのだ!」

 うつむき加減で報告するツィーテンに、プロイセン軍総司令官ゲプハルト・レーベレヒト・フォン・ブリュッヒャー元帥は、72歳の高齢とは思えぬ太く荒々しい声で怒鳴りつけた。

 老齢期に至ってなお逞しい体躯から発せられる迅雷のごとき怒声に、歴戦のツィーテン将軍が全身に冷や汗をかいていた。

 豊かな口ひげを蓄え、眉間に深いしわが刻まれた強面のブリュッヒャーは、見た目そのままの勇猛果敢な戦いぶりで、これまでに数々の戦功を上げてきたプロイセン屈指の武人である。

 引き下がることを知らず、ひたすら前へと突き進むその姿に、人々は彼を前進元帥マルシャル・フォアヴェルツと呼んだ。

 大酒飲みで、戦場でも常にジンのボトルを手放さない。失策や怯懦きょうだには厳しく当たる一方で、義理人情に厚く、部下の面倒見もよかった。

 悪く言えば粗野で単純な性格であるが、そんな彼に畏敬や親愛の念を抱く者は多く、彼の部隊は常に高い士気を保っていた。


「申訳ございません。敵の動きは予想外の速さでございました」

 ツィーテンの言葉に、ブリュッヒャーは唇を歪めたが、それ以上部下を責める言葉は発しなかった。

 フランス軍の迅速さは、ブリュッヒャーにとっても予想外だったからである。そもそも、シャルルロワに攻めてくること自体が予想外であった。

「これまでの情報では、フランス軍はドーバー海峡に近い西の国境付近に多く展開しているとの話だったはずじゃが」

「そのとおりです。西にはイギリス軍が駐留しております。敵はイギリス軍と本国との連絡を絶つことを企図しているものと考えておったのですが」

「とにかく、すぐに全軍をあげてシャルルロワへ向かうのだ。フランス軍の一兵たりとも城塞内には入れぬ」


「お待ちください、閣下!」

 息巻くブリューヒャーの下へ、参謀長のグナイゼナウ中将が息を切らして駆け寄ってきた。

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