第11話 始動

 時は、シャルルロワにフランス軍が現れた夜から半月ほど前に遡る。

 軍の再建をダヴーに任せ、自身は情報収集と作戦立案に専念していたナポレオンが、ティユイルリー宮殿の一室にフランス軍元帥たちを招集した。


 高官の会議用に作られたその部屋は、他の部屋に比べると落ち着いた、それでいて重厚感のある内装が施され、厳かな雰囲気を有している。

 部屋の中心に置かれた大型の円卓を囲んで、ナポレオンと元帥たちは顔を合わせた。


 ナポレオンに元帥杖を授けられた者は、これまでに26人に上る。

 かつてはこの部屋に幾つもの机と椅子が並べられ、大勢の元帥が激しい議論を交わしたものだ。

 されど、ある者は他界し、ある者は職を辞し、またある者はブルボン朝に寝返り、今日この場に集まったのは、わずか6人にすぎなかった。

 そこにいる誰もが、寂寥と懐古と不安の入り混じった感情を抱かずにはいられなかった。


 その感情を断ち切るように、ナポレオンが切り出した。

「敵は現在、3方向から我が国に迫りつつある」

 険しい表情で、一同の顔をじっくりと確かめるように見渡す。

「北東のネーデルラント方面よりイギリス軍とプロイセン軍あわせて25万。東のライン川沿いには、オーストリア軍など30万……」

 早口で喋りながら、軍議用の地図の上に敵軍を模した駒を次々と置いていく。


「南のイタリア方面は、現在のところオーストリア軍6万だが、ナポリに控えている軍が合流すれば、10万を超える」

 さらに東方からロシア軍16万が進軍中である。

 近いうちに、フランスを包囲する同盟軍の戦力は、80万に迫るであろう。


「それに対し、我がフランス軍はようやく60万を確保したところだ」

 ナポレオンは、地図に描かれたフランスの上に駒を置いた。

 迫り来る多数の敵の前に置かれた駒が、とても頼りなく感じられる。

 元帥たちは皆、沈痛な表情で机上の地図を見つめている。


「しかも、国境や国内各地の軍事拠点の防衛のために兵は分散している。一度に動かせるのは、せいぜい十数万といったところだ」

「十数万で80万の敵を相手に……」

 覚悟していたことではあるが、一同は緊張の色を隠せなかった。

「この状況を切り抜けるには、敵が結集する前に、こちらから先制せねばならぬ」

 同盟軍は数こそ多いが、言語・民族の異なる国々の寄せ集めであり、それぞれの思惑もあって、十分な連携が取れていない。

 あわよくば他国に戦わせ、自分はなるべく最後に参戦しようという姿勢すら見受けられた。


「奴らがまだ分散しているうちに各個撃破する。問題はどの敵から倒していくかだ」

 ナポレオンの問題提起に、真っ先に口を開いたのはネイであった。

「最も数の少ないイタリア方面のオーストリア軍から、確実に撃破していくべきでありましょう。数の多い敵を先に相手にすると、万が一手間取った場合、敵に集結する時間を与えることになります」

「いや、イタリア方面は後に回して差し支えありませぬ」

 間髪を容れずネイの意見を否定したのは、ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト元帥であった。

 ネイと同じく平民出身の元帥である。2人同時に元帥に昇進しており、さらには年齢も2か月しか違わない。そのためか、ネイを激しくライバル視している。

「ほう」

 ナポレオンが興味深げに眉を動かした。

「イタリアからパリまでは距離があります。しかも険しいアルプスの山々が天然の要害となり、攻めるに不利、守るに有利な地形。こちらからは仕掛けず、防御に徹するが得策と存じます」

 スールトは続けた。

「またライン方面のオーストリア軍も、当面は動きがないでしょう」

「なぜだ」

 それは疑問を口にしたというより、先を促すような口調だった。

「オーストリアは、ほぼ全兵力を前線に集めております。これを抜かれれば首都ウィーンまでの道が丸裸となるため、迂闊には動けぬはず。他国の軍が動くまで静観する構えでありましょう」

「すると結論は1つだな」

「はい。プロイセンを撃破し、イギリスをドーバー海峡の向こうに追い返す。然る後、反転してオーストリアを攻撃する。さすればオーストリアは泡を喰らって本国へ逃げ帰ることでありましょう」

「うむ、スールトの言うとおりだ。諸君、我らはネーデルラントへ向かう。敵はイギリス、そしてプロイセンである。早急に準備を整えよ!」

 ナポレオンが、よく通る声で号令を掛けると、全元帥が一斉に立ち上がった。


 自らの意見が容れられたスールトは、ネイの方を見て勝ち誇ったように薄笑いを浮かべた。

 苛立ちを覚えたが、皇帝の前で挑発に乗る訳にもいかない。ネイは荒々しく椅子を円卓の下に押し込み、足早に部屋を出た。


 ほどなく、遠征軍の陣容がナポレオンから発表された。

 出陣するのは、ナポレオンを筆頭に、フランス軍北部方面軍12万。


 総参謀長、スールト元帥。

 左翼軍司令官、ネイ元帥。

 右翼軍司令官、グルーシー元帥。


「私は参加できないのですか?」

 不服そうに疑問を投げかけたのはダヴーだった。

「お前には首都防衛を任せる。お前ならば私を裏切ることはないだろうからな」

 ナポレオンの脳裏には1年前、マルモンの寝返りによって首都を奪われ、退位を余儀なくされた苦い記憶があった。

 同じ過ちを繰り返さぬため、首都防衛の任には最も信頼できる者を充てる必要がある。それは、王政復古の間もブルボン朝の軍門に下らなかった、ダヴーを措いて他になかったのである。


 ——ナポレオンの考えは理解できる。一方でそれは、ナポレオンがダヴー以外の者に裏切りの疑いを抱いていることを意味するものに他ならないのではないか。

 ネイは、ダヴーと語るナポレオンの横顔を見つめた。


 皇帝は孤独だ。人々の熱狂と家臣の恭順を一身に集めても、彼は孤独なのだ。

 卓越したカリスマ性と、希代の軍事的才能に期待するが故に、人々は彼に従う。だがその期待に応えられなければ、躊躇なく見放すのだ。

 その重圧は、余人の想像の及ぶところではないだろう。

 ——自分はどうだ。いつかまたナポレオンを見放す日が来るのだろうか。あの日のように。そのとき俺は、旧友と銃火を交えることになるのだろうか。

 自分でも思いがけず浮かんだその考えに、ネイは驚き、慌てて頭から振り払った。


   *


 6月上旬、十分な武器弾薬と食糧を備えた12万の兵が、ネーデルラントとの国境へ向けて密かに進軍を開始した。

 先頭に立つナポレオンを背に乗せるのは、愛馬マレンゴである。この3か月の間に体つきは逞しさを取り戻し、美しい芦毛は初夏の陽射しを浴びて艶のある輝きを放っている。

 敵するはイギリス、プロイセン連合軍25万。2倍以上の兵力であるが、ナポレオンは胸中に策を秘めていた。


 1年間の仮初かりそめの平和を経て、ヨーロッパの運命を大きく揺り動かす戦いがまた始まろうとしていた。

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