第9話 ウィーン会議

 ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーは不機嫌だった。

 どうして誰も彼も人任せなのか。困ったときの神頼みとばかりに、面倒を押し付けてくるのか。


 つい先日まで、彼はウィーンにいた。ナポレオン打倒後のヨーロッパの政治体制を協議するウィーン会議に、イギリス代表として出席するためである。

 本来、イギリス代表は外務大臣であるカスルリー子爵が務めていた。ところが子爵は会議途中で帰国してしまったため、駐フランス公使であったウェリントンにお鉢が回ってきたのだった。国内のやむを得ない事情あってのことではあったが、重大な会議を途中から丸投げされ、ウェリントンは戸惑った。

 なにより呆れたのは、会議が始まってより、すでに半年近く経過しているにも関わらず、肝心の議論は何ひとつ進んでいない事だった。

 各々が自己の主張を繰り返すばかりで話がまとまらない。というより、はなからまとめる気があるようには見えなかった。

 その中で異彩を放っていたのは、敗戦国フランスから送り込まれた外相タレーランであった。タレーランは巧みな弁舌で各国の利害対立を煽り、議論をフランスに有利な方向へと導いた。戦争に勝った国々が敗戦国に翻弄される奇妙な光景が繰り広げられていた。


 結論の出ない話し合いに背を向け、人々は社交の場での人脈形成にいそしんだ。

 ウェリントンとしては不本意であったが、会議の場で有意義な議論が交わされない以上、こうした非公式な場での情報交換に努めざるを得なかった。かしこまった場より、酒や料理を前にして語り合う方が、本音が出やすいのも確かである。加えて、彼は元来、社交好きであった。

 すらりとした長身、端麗な容姿、そして英国紳士に相応しい気品漂う立ち振る舞いで、ウェリントンはたちまちウィーンの貴婦人たちの噂の的になった。

 中には色目を使って近づいてくる女性も1人ならずいたが、彼女らと浮名を流している暇はウェリントンにはなかった。

 彼がウィーンに入って間もなく、ナポレオンがエルバ島を抜け出しフランスに上陸したとの急報が入ったのである。各国の代表が集まり、いつものとおり豪華な広間でティーカップを片手に、中身のない話し合いに時間を浪費している最中のことであった。


「なぜだ、誰も奴の動きを見張っていなかったのか!」

「だから私はもっと遠くの島へ流すべきだと思っていたんだ!」

 会議という名のティーパーティーに集っていた各国の代表は、文字通り蜂の巣を突いたような騒ぎになった。彼らは、猛獣の檻に鍵も掛けずに目の前で惰眠を貪っていたことを、ようやく思い知ったのである。彼らは皆、その責任を「自分以外の誰か」に求めた。


 会場内の動揺が収まるにつれ、彼らの視線が自分に集まってくることにウェリントンは気付いた。

 一同を代表して、ロシア皇帝アレクサンドル1世が、懇願するような表情でウェリントンに近づいてきた。

 敬虔なキリスト教徒である皇帝は、ウェリントンの肩に手を掛けて言った。

「神の御心に従い、神聖なる我らが同盟を勝利に導いてくれたまえ。君は半島戦争の英雄だ。君ならできる。世界を救うのは君しかいないのだ」

 君ならできる。時の古今、洋の東西を問わず、上の者が下の者に無理難題を押し付ける時の常套句である。その言葉を真に受けて手痛い失敗を犯し、淪落りんらくしていった者の、なんと多いことだろうか。

 それを分かっていながらも、ウェリントンは自分に懸けられた無責任な期待をはね退けることはできなかった。事実、彼以外にナポレオンと互角以上に渡り合える者はいなかったからである。


 ともあれ、危機が目の前に迫って来たことによって、会議は急速に進展を始めた。

 ウェリントンはその中心となって早急に議定書の案をまとめ上げると、最終的な締結を後任のクランカーティ伯爵に任せ、ここブリュッセルへとやって来たのである。



 ブリュッセルは、結成されたばかりの第7次対仏大同盟の主要国であるイギリス、プロイセン両国の中間にあり、フランスにも近い。ウエリントンはここを拠点として、ナポレオンに戦いを挑むつもりであった

 ただ、イギリス軍は過去の戦争の痛手から立ち直っておらず、兵員が不足している。

 プロイセンはもちろんのこと、周辺の小国も含めた連合軍を編成しなければ、ナポレオンに立ち向かうのは難しいであろう。

 残された時間は短い。ウェリントンは文字通り寝る間も惜しんで職務に没頭した。

 春の陽気を感じる余裕もないまま、季節は初夏を迎えようとしていた。

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