第8話 黒い商人

 戦争省の庁舎をネイが訪れたのは、河畔のポプラ並木に鮮緑の若葉が萌え立ち、行き交う人々の服装にも肌の露出が目立つようになってきた頃のことだった。

 眩しいほどの陽射しが溢れる屋外とは対照的に、戦争省の建物内は薄暗く、ひんやりと冷たい風が廊下を吹き抜けていく。

 開け放しのドアの奥では、多くの職員がせわしなく働いているのが見える。戦争の準備に余念がないのは軍人だけではないのだ。


 階段を昇り2階へと向かう。白い大理石の階段は、しかし手入れが行き届いているとは言えず、ところどころ黒ずんでいる。

 大臣室は階段を上った先、廊下の一番奥にある。

 その扉の向こうから話し声が聞こえた。


 ノックを躊躇ためらい、扉の前で立ち止まっていると、扉が勢いよく開き1人の男が出てきた。扉が鼻先をかすめ、ネイは後ろにのけぞった。

「おっと、これは失礼」

 男はネイを見てニヤリと笑った。

 小太りで頭の禿げあがっている割には肌つやが良いその男は、若いようにも年配のようにも見えた。黒い地味な服装は、重苦しい戦争省の雰囲気と相まって、どこか近寄りがたい雰囲気を感じさせる。

 男は黒いトップハットを頭に乗せると、ネイに向かって軽く頭を下げ、足早に去って行った。


 入れ替わりに部屋に入ったネイを、ダヴーは笑顔で迎えた。

「元帥閣下が直々に何の御用ですかな」

「何が元帥閣下だ。お前も元帥だろう。——実は皇帝陛下に兵営の建設を命じられてな」

「陛下直々のご命令となると単なる兵舎ではないな」

「ああ、兵員10万人、軍馬2万頭、そして武器、弾薬、食料を収容する大規模なものだ。来るべき戦争では、出撃拠点として重要な役割を担うことになる」

「それほどの施設を建設するとなれば、資金調達だけでも一苦労だな。それだけじゃない。人足や資材の調達だって容易ではないぞ」

「そうだ。だからお前に相談に来たのだ」

 戦場では驍勇無双ぎょうゆうむそうのネイであるが、こうした仕事には滅法弱かった。

「軍隊ならば兵士は上官の命令に絶対服従だ。だが職人には頑固な者が多く、商人は何かと駆け引きを好む。面倒だが、かといって力でねじ伏せる訳にもいかんからな」

 一本気な上に気の短いところがあるネイは、彼らとの交渉に手を焼いていたのだった。

「仕方のない奴だな。謝礼は来月の給料から天引きさせてもらうぞ」

「おいおい、うちは子供がまだ小さくて何かと物入りなんだ。勘弁してくれ」

 2人の元帥は声をあげて笑った。

 クールな理論派で学者か官僚のような雰囲気を持つダヴーは、熱血漢で猛将型のネイとは正反対の性格だが、ネイにとってダヴーは家族以外で唯一心を開いて話せる相手であった。


「ところでさっきの男は?」

 ネイは自分と入れ違いに部屋を出た男のことを尋ねた。

「商人だ。最近力を伸ばして来ている」

「軍資金の算段か。だが今のフランスに金に余裕のある商人などいるのか」

「ああ、戦争に負けて金がないのは商人も同じだ。かといって敵国の商人に頼るわけにもいかん。その点、あの男は国家に属さぬ存在だ」

「つまり、ユダヤか」


 流浪の民と呼ばれるユダヤ人は、統一的な国家を持たず、広い地域に拡散している民族である。

 宗教的な理由から長らく迫害を受け、狭い居留地の中での生活を強いられてきた。

 しかし近代に入り、市民革命の自由と平等の気風がヨーロッパに広がると、それはユダヤ人の地位にも及んだ。

 ナポレオンは各地でゲットー解放を推し進め、ユダヤ人は急速に活動の自由を獲得していったのだった。

 特に金融業をはじめとした商業分野での彼らの活躍はめざましく、中には巨万の富を築く者もいた。

 今の男も、その勢いに乗って事業を拡大している商人の1人なのだろう。


「協力してくれそうなのか」

「十分な金と物資を約束してくれた」

「もちろんタダではないだろうな。どんな見返りを提供したんだ?」

「まあ、詳しくは言えんがフランスにとっても悪い話ではないはずだ」

 ダヴーは話をはぐらかすように視線を逸らした。

「怪しい話だな。あの男は信用できるのか」

「ドイツ出身だが今はイギリスに拠点を置いている。おそらくイギリス軍にも力を貸しているだろう」

「何だと。それでは……」

「商人にとって信用が第一だ。それに言っただろう、あの男は国家に属さない」

「金のためなら誰彼かまわず手を貸すというわけか。節操のない奴だ」

「彼にとっては戦争も商売だ。どこが勝っても利益を確保できるようにしているのさ。我々にとって大切なのは、必要な資金と物資の提供を受けることだ。それさえ果たされるなら他事は構わぬ。およそ国家の行うあらゆる事業の中で、戦争ほど金の掛かるものはないのだからな」

 長年に渡る戦争で多額の戦費を費やしたうえに賠償金を背負わされたフランスの国家財政は困窮し、経済も低迷していた。


「増税をすれば国民の反発を招く。戦費の調達は国外に途を求める他ないのだ」

「敵に通じていると分かっていても頼らねばならぬか……」

 ネイはフランスの置かれた厳しい状況を改めて痛感し、ため息をついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る