青と渇き

機乃遙

青と渇き

 誰かが、海にはいろんな意味があると言っていた。そう聞いたとき、僕には、海と言ったらあの海しかないだろうと思っていたけれど。でも、いまなら彼の言ったことが何となくわかる気がする。

 僕は海を見ていた。陽光を照り返す水平線を。濃い青色をした潮の流れを。往きつ戻りつを繰り返す水の動きを。真っ白い砂浜に体を横たえながら。


     *


 僕らが住む島は、島民全員がほぼ顔見知りといえるほど社会が狭い。海に隔絶された離島で、本島へ行くには一日に二本だけ出ているフェリーに乗るしかない。インターネットで田舎自慢をされたら、その投稿すべてが腹立たしく思えてしまうぐらいの、そんな田舎だ。

 でも僕は、島が好きだった。静かだし。潮風が心地良いし。なにより、ばあちゃんは元気だし。

 母さんは家事に洗濯。親父はバスの運転手をしている。そして僕は、島でも一校しかない学校の高校生だった。

 「だった」と過去形なのは、もう高校がないからだ。

 ――生徒数がいないから、学校がつぶれた?

 違う。

 ――教師がいない?

 惜しい。もう一声。


     *


 ある時、本島から知らされた情報が島じゅうに響きわたった。

 ピンポンパンポーン……と間抜けな音がしてから、村長の声。村長は同級生のトモミの叔父さんなんだけど、その叔父さんの声で全島に放送がかかったんだ。スピーカーで、島じゅうに。そんなの、前にテレビの取材が来るとか言ったとき以来だった。だから僕は何かを期待していた。なんだろうと、初め聞いたときは何も考えていなかった。

「や、役場から島民の方へお知らせです。先ほどNASAおよびJAXAの発表によりますと、小惑星HS/1013Tは、およそ八〇パーセントの確率で地球軌道と衝突する……との情報が……!」


 僕はそのとき、祖母の家にいた。祖母の家と言っても、僕の家からも近い。丘を少しあがった先にあって、縁側からは浜辺が一望できる立地にある。僕はちょうど軒下に出て、庭から浜を眺めていた。

 ちょうど島で唯一の学校が、祖母の家のさらに上にある。ほぼ丘の頂といっていい。だから僕は学校終わり、家に帰るときはいつも祖母の家に寄っていた。そこで一杯お茶を飲んで、茶菓子を摘んで、しばらくしたら家に帰る。日が暮れるころには家についてるぐらいに。

 ただ、その日は珍しく日没間際まで祖母の家にいた。なぜだかこの場所を離れたくない気分になったのだ。スマホには母さんからのメールが来てたけど、僕は無視して縁側にいた。そして、放送が流れた。

 僕は呆然としながらその放送を聞いていたと思う。

 小惑星HS/1013T

 その名前は、僕も知っていた。昨年、テレビではやっていたからだ。地球に激突するかもしれない小惑星があって、それがもうすぐやってくるって。でも、みんなテレビ局が仕組んだ娯楽だって思ってた。専門家がネットサイトで「そんなことはあり得ない!」とか豪語してたし。そんな小惑星激突で人類滅亡! なんてこと起きるはずないと思ってた。

 母さんも「昔、ノストラダムスの大予言っていうのがあってね。あれも真っ赤なウソだったのよ」と言ってたし。父さんも「マヤ文明の予言なんてのもあったが、あれもどうなったんだろうな」って笑ってたから。てっきり、これもそういうたぐい何だろうとばかり思っていた。

 だけど、今回ばかりはそうじゃなかったのだ。

 縁側でお茶を飲んでいたとき、お茶請けを持ってきたお婆ちゃんがふるえていた。皿に盛られた煎餅を落として、何かブツブツとつぶやいていた。

 あとでわかったのだけど、そのとき祖母がつぶやいていたのは、念仏だった。


     *


 その日から、島じゅうに厭世観とでも言うべきものが溢れ始めた。はじめはまだ落ち着いていたけれど、しばらくすると島を出る人間も現れ始めた。一日二回のフェリーは、珍しくパンクするようになった。

 みんな、自分のなかの「やりたかったことリスト」にチェックをつけに行ったのだ。今までやりたかったこと。仕事ばかりでできなかったこと。どうせ世界の終わりが来るのなら、その前にやってしまおうって。みんなそういう魂胆だった。

 そう、みんな「やりたかったことリスト」にチェックをつけに行ったのだ。日暮先生もそうだった。うちの担任――あの人は、大学時代の研究を続けたいと言って、海外に出ていってしまった。

 そういうわけで、学校はもう開いていない。この島には、もう「やりたかったことリスト」をやりつくした老人か、どうしようもできない若者。そして、逆に離島という場所に来てみたかった人たち――つまり彼らもリストにチェックをつけに来た――ばかりが残されるようになったのだ。


     *


 僕は海を見ていた。真っ白い砂浜に体を横たえながら、沈みゆく光と海を。

 浜辺では、すこし離れたところで焚き火が燃していた。僕はその陽炎に揺れる人影を横目に見た。

 男女。体をまさぐりあう。すぐに溢れる嬌声。素肌が晒される。生まれたままの姿。

 僕はそれを見て、やれやれとため息をついた。もう見慣れてしまった自分もイヤだったし、衆目があるところでこんなことを始める彼らもイヤだった。

 人間は自然に還るべきとかなんとか……。そんな論理が跋扈するのに時間はいらなかった。なにせ、しばらくしたら地球は小惑星と軌道が重なって、木っ端みじんになるのだから。すぐに答えは出た。

 彼らが男女入り乱れて、恋人の枠を越えたセックスを始めた時、僕はバツの悪さを感じて腰を上げた。砂浜を出て、僕は家路につくことにした。


 浜辺を出て、土手道に沿って歩いているときだった。

 もう外は暗くなり始めて、明かりはどこにもなかった。電灯はあったけれど、電力の供給が不安定で、いつも点いているわけではない。だから僕は手回し充電のランタンを片手に歩いていた。ほのかな光しか漏らさないけれど、足下ぐらいは照らしてくれる。

 土手道をしばらく歩いていると、反対側から光が揺れてくるのが見えた。だんだんとそれは近づいてきて、その持ち主を僕に教えた。

 トモミだった。同級生の、村長の姪っ子。彼女は左手に懐中電灯、右手にリードを持っていた。リードの先には、フワフワの焦げ茶色をした子犬が一匹。てちてちと彼女の前を歩いている。

「よう」

 言って、僕はランタンを軽く持ち上げた。

「あ、サクヤくん……」

「こんな時間に犬の散歩か?」

「本当は日が暮れる前に帰るつもりだったんだけどね。思ったより日が沈むのが早くって」

「そっか。たしかに、もうずいぶん日も短くなったしなぁ……」

 言って、僕は砂浜のほう。もうすっかり暗くなった水平線を見やった。砂浜にはまだいくつか焚き火があって、その周囲を男女の裸体が囲んでいた。僕はちょっと気恥ずかしくなって、トモミから目を反らした。

「送ってくよ。もう暗いし。家、あっちだろ?」

「うん……ありがと、サクヤくん」

「いいって、べつにそれぐらい」

 きゃんっ! と犬が吠えた。空白を埋めるみたいに。示し合わせたタイミングで。


「でも、この島も人が増えたんだか、減ったんだかよくわからないよな。離島に憧れてくる人、まだ後を絶たないらしいじゃん」

 トモミと僕と犬の二人と一匹。星空の下、帰路を行く。ゆっくり、ランタンを揺らしながら。

「そうだね。……さっきの浜辺の焚き火してたのとかも……」

「キャンプ気分なんだろ」と僕は愚痴をこぼすみたいに。「もう漁師もみんないなくなっちまったし。魚釣りも、やりたいやつがレジャーで行くか、自給自足の生活の為って感じだしなぁ。海で飯とって、ああやってキャンプ気分で遊んでるんだよ。世界が終わる日までさ。楽しそうだよな」

「みんな、リストにチェックを付けにきたんだろうね」

「そうだろ。じゃなきゃ、こんな島来ないよ。クソ田舎じゃん。……って、それを言ったらトモミの親父さんや叔父さんがが怒るな」

「大丈夫……家族、もういないから」

「いないって?」

 突然、トモミの足が止まった。犬が彼女を引っ張ろうとしたけれど、トモミの足は凍ったように動かない。

「行ったのよ。叔父さんも、お父さんも」

「行ったって?」

「『やりたかったことリスト』にチェックを付けに。お父さん、前々から海外旅行に行きたかったって。お母さんと新婚旅行してなくて、一度も二人で島を出たことがないから……一昨日、スペインに」

「トモミは?」

「留守番」

「……そっか」

 彼女の足にかけられた石化の呪い。まだ解けない。僕は解呪の言葉を探そうとした。ナムアミダブツ? それはお婆ちゃんの言葉だ。

 そう考えていると、トモミのほうから口を開いた。

「……ねえ、さ。サクヤくん、ちょっとウチ寄ってかない。料理、作りすぎちゃって。一人じゃ食べられないからさ。カレー、お裾分け」

「カレーか」

 そんなとき、示し合わせたようになる僕の腹。それに興奮する子犬の鳴き声。遠くからはキャンプ場の喘ぎ声がした。


 トモミの家は、僕の家よりも少し下のほうにある。三階建ての一軒家で、一階は診療所――トモミの父さんは町医者だった――二階から上が家だった。

「どうぞ、あがって」

 そう言われて、僕は彼女の家にあがった。初めてではなかったけれど、高校に入って以降はこれが初めてだったと思う。

 室内はやっぱり電力供給が不安定だった。トモミは何度か照明の電源を入れようとしたけど、問題の蛍光灯はウンともスンとも言わない。結局、蝋燭に火を灯すことになった。

 ダイニングテーブルには、燭台に乗った四つの蝋燭。キッチンカウンターには、充電式のラジオ機能付きランタン。ラジオは本島のFM局が選局されていて、夕方のニュースを流していた。どうやら本島でも電力が不安定らしい。

「カレー、あっためるから。タッパーに入れて持ち帰る? それとも……ここで食べてく?」

「どっちでもいいけど」

 僕はラジオの内容が気になって、キッチンのほうへ。トモミが明かりを頼りにして、鍋にお玉を入れていた。生ぬるいカレーをかき混ぜている。

 いっぽうでラジオニュースは叫んでいた。電力の不安定。移住者。リストにチェックをしに行く人達。警察が人員不足。世界的に貨幣価値が暴落。旧石器時代に逆戻り。でも、どうせ滅亡だからそれでもいいじゃない……。

 ラジオへ耳を傾けていると、突然胸が暖かくなっていることに気づいた。トモミだった。さっきまでお玉をつかんでいた彼女が、今は僕の胸を抱きしめていた。顔を僕の胸に当てて、彼女は鼻をすすっている。

「……ごめん、サクヤくん。だけど、今はこうさせて。わたし……怖いの。寂しいの」

「……家族がいないのが寂しいのか?」

「みんながどっかに行っちゃうのが怖い。先生も、みんなどっかに行っちゃった。みんな、やりたいことをやりに。……島はたしかに元気になった。いろんな人が出てったけど、いろんな人が来て、みんな好きなことをやってる。楽しそうに生きてる。だけど……。怖いよ、サクヤくん。みんな、ここからいなくなっちゃいそう」

「……僕は島から出るつもり、ないから」

 右手で、トモミの髪に触れ――ようとした。でも踏みとどまった。

 一瞬、頭によぎった。浜辺での移住者たち。焚き火を囲んで、火の扱いを覚えたばかりの猿人のように。彼らは日中、捕ってきた魚を焼いて、それで満腹を得たら、次は性行為に耽る。そしてお互いに肌をすり寄せながら、火に当たって寝る。食欲、性欲、睡眠欲。それに正しく従った人たち。『やりたかったことリスト』にチェックを付けた人たち。

 僕は、それに近づいていた気がした。いま、ここでトモミを撫でてしまったら、僕は……。

 だから僕は何もしなかった。ただじっとしていた。

「いいよ、しばらくこうしていれば」

「……ありがと、サクヤくん……」

 僕を抱きしめる力が、少し強くなる。髪のにおい。肌の艶やかさ。胸の感触。体温……。


     *


 家についたとき、電気は復旧していた。

 うちは発電機もあったから、割と電力は安定していることが多い。発電機は、父さんが作った。小惑星の報せが出てから、すぐに父さんも仕事をやめた。正確にはやめてないけれど、毎日スーツを着てクルマを乗り回すようなことはなくなった。父さんが運転するのは、移住者に島を案内するとき。小型のバンで島をぐるりと回る。

 そんなとき以外、父さんはいつも家の庭にいる。物置を作業部屋に改造して、そこで日曜大工に興じているのだ。ガソリン式の発電機も、そんな日曜大工のたまものだった。

 自宅に着くなり、僕は二階の自室にあがった。リビングからは母さんが「サクヤ、ご飯は?」と聞いてきたけれど。僕は黙って部屋に入った。


 小惑星HS/1013T

 先日、それには『コンペイトウ』という名前が付けられた。発見者の教授がそう名付けたらしい。普通なら、新しく見つけた星には自分の名前を付けたりするもの。だけど、さすがにその教授も、世界の終わりを告げる者に自分の名前を付けたくなかったのだろう。小惑星の形をとって、コンペイトウと名付けた。

 世界は、コンペイトウで終わる。

 地球は、コンペイトウと激突して消える。

 そんな冗談みたいな言葉が、いまは妙なシリアスさをもって存在している。きっと情報が伝わる前の自分に言ってみたら、病院に行くことをすすめられるだろう。

 窓を開けて、外を眺めてみた。

 僕の部屋から浜辺は見えない。見えるのは庭と、垣根。あとは空だけだ。


 と、そんなときだった。

 ブウゥゥ――――――――――ン……

 何かが音を立てて、目の前を通り過ぎた。黒い影が、確かに目の前を通過した。

 初めは虫かと思った。でも、虫にしてはデカすぎるし、羽音も機械的に聞こえた。とてもじゃないが、虫には見えなかった。

 ――じゃあ、何だ?

 まだ音はする。きっと近くにいる。

 僕は部屋の中を見回した。何か使えそうなもの……なんでもいい。とりあえず上着を手に取った。フード付きのパーカー。それの裾を持つと、僕は窓から身を乗り出し、虚空でパーカーを振り回した。

 ブンッブンッ……と風を切る音。

 しばらくして手応え。何かがぶつかる音がして、それから虫が羽根をバタつかせるような音。

 それはフードの中で暴れていた。生き物のよう。だが、その大きさは二十センチ以上はある。巨大な鳥? でも、鳥ならバサッバサッという羽音がするはずだ。

 僕はおそるおそる、それに手を伸ばした。

 白いカラダ。四枚の黒い羽根。そして大きな一つ眼。

 それは虫でも鳥でもなかった。ドローンだ。

 僕は、パーカーの布地越しに四枚羽根を押さえつけた。威勢良く飛んでいたドローンも、厚さ五ミリはあろう布を噛ませれば静かになった。

 ドローン自体は、別に珍しくも何ともない。いわばラジコンみたいなものだから。島の中で見たことはなかったけれど。

 しかし僕がそのドローンに驚いたのは、初めて実物を見たからではない。ドローンの白いボディ、その側面にロゴマークが刻まれていたのだ。それも、テレビ局の。

 テレビ局の空撮用ドローン。

 そう考えれば、別に不思議なものでもなんでもない。でも、島にそんな撮影が入るなんて話は聞いてない。離島は隔絶された田舎社会。住民が寄り添って生きる閉鎖社会。情報は、すぐに出回る。テレビスタッフが上陸したなんて話があれば、半日足らずで島じゅうに知れ渡るはずだ。

 なのに、そんな話は聞いてない。

 じゃあ、どうしてドローンが?

 僕はドローンの電源を落とすと、そのボディを上から下までなめ回すように見た。知りたかったのは、こいつが何を記録していたのか……。それだ。


 本体メモリはすぐに見つかった。一般的なUSB端子に接続して使える、ごくふつうのモデルだった。

 とりあえず、僕はドローンが飛び出さないよう羽根に服をひっかけて固定。その間に、部屋の中からUSBケーブルを探し出した。これに三十分以上とられた。

 やっとの思いでケーブルを見つけると、早速ドローンとパソコンを繋げてみた。ノートパソコンは、しかし使わなくなって久しかった。インターネットはもうほとんど機能していない。管理していたアメリカの機関が崩壊したからだ。その直後、『インターネット掌握』とやりたかったことリストに記してた人がすぐに引き継いだけれど。でも、それだって快適なものじゃない。一日にウェブページにアクセスできる人は、世界の中でも限られている。僕らの島は、きっとその順位の中手ならお尻から数えたほうが早い。

 だから僕も、パソコンなんて久しく使ってなかった。立ち上げたのは、およそ三ヶ月ぶりだろうか。

 うなり声をあげて起動したノートは、ファンからホコリをまき散らし、薄暗い僕の部屋を照らし出した。起動まで約一分。放置してたせいか、覚醒には時間を要した。

 それからUSBを認識して、まもなくドローン内の本体メモリが表示された。中には映像が一つだけ記録されていた。

 クリック。メディアプレイヤーが開く。再生――昼間の港の様子が映し出された。


     *


 ブウゥゥゥ――――――――ン…………

 四枚羽根を高速回転させて、ドローンは急上昇する。カメラは青を捉えていた。空の青と、海の青。空は澄み切った水色で、海は光を反射する濃い青。その境界線は水平線。濃さと淡さが混ざり合う水平線。

 そこを進む一艘の船があった。白いボート。元漁師の船長が一人と、乗客の老夫婦が二人。よく見れば村長夫婦だった。トモミの両親だ。

 ドローンはしばらく船が進む様子を撮影し続けた。

 しかしある時、ドローンは急降下。船の後ろに回り込むようにして撮影を開始した。

 そしてそのとき、カメラの中にあるものが映った。もう一隻の船だ。それは村長夫妻が乗っているボートなんかよりずっと大きいクルーザーだった。

 いち早くその存在に気づいた船長が警笛を鳴らす。しかし相手から応答がないのだろう。船長はモノに当たるようにして、それから無線機のマイクを手に取った。

「こちら竜平丸。そちらの所属は?」

 応答はない。

 仕方なく、船長は迂回。それからスクリューを止めて停船。しばらく様子を見るようだった。

 問題のクルーザーが徐々に近づいてきた。すこし、また少しと近づいてくるたび、船長の表情がかたくなった。

 そしてついに交差するときだ。

 向こうの船は、ボートに接触するかしないかというところで急停止。波を巻き上げて隣に現れると、今度はドタドタと船内が慌ただしくなった。

 訝しげに様子を見る船長、そして村長夫妻。それを空撮するドローン。

 ――すると直後のことだ。

「おめでとうございまーす!」

 甲高い声。クルーザーの船首から突如現れた一人の男性。それは、最近話題のアイドルユニットの一人。世間でも有名な芸能人だった。

 若いアイドルの登場に、村長夫婦と船長は驚きを隠せないでいる。僕もそうだった。

 すると、アイドルは両手を大きく振りながら、身振り手振りとともに言ったのだ。

「村長さん、ついに島からの脱出に成功されましたね」

「脱出って……どういうことだ?」

「世間を話題にさらっているコンペイトウの話――ご存じですか?」

「ご存じも何も……私たちは、それだからこれから旅行に……」

「そう。実はコンペイトウ、存在しないんです」

「は?」

 言葉が漏れる。

 僕も、漏れた。

「コンペイトウなんて小惑星、存在しません。地球にも衝突しません。これはですね、離島まるまる一つ使った壮大なドッキリ計画だったんです。そっちの船長さんは仕掛け人の一人。一連の様子は、ドローンで空撮させていただきました」

「は……は? 冗談だろう?」

「そう。すべて冗談だったんです。もし世界の終わりがわかったら、人間はどうするのか? それを見るという世界初の実験番組です。あ、ご安心ください。ちゃんとスペイン旅行には行けますから」

「そういう問題では……。じゃあ、島にいる人間は?」

「移住者はみんな仕掛け人です。つまり、世界終わりの日がわかったら、どれぐらいの人が地元を出ていって、どれぐらいの人が自分の生まれ育った地でひっそりとその日を迎えるか……という実験で」

「そんなまさか!」

「そんなまさかなんです」

 ――まさか。

 僕は閉口する。

 これは、本物の映像か?

 島で起きていることは、全部ウソ?

 みんな、すぐに世界が終わると思って、いまやりたいことをして過ごしている。それが全部ウソなのか?

 僕は何も見なかったフリをして、パソコンの電源を落とした。


     *


 翌朝。僕は目を覚ますと、真っ先にベッドの下を確認した。テープでぐるぐる巻きにして固定されたドローン。それが飛び出していないか確認したのだ。

 朝食に呼ばれて、一階のリビングへ。もうこの家では、誰も仕事をしていない。学校にもいっていない。お金もない。でも、食べ物はある。……世界が終わる日までの備蓄分。

 九時過ぎにとる朝食に、僕はもう何の疑念も持たなくなっていた。父さんもパジャマ姿で食卓にいて、眠い目をこすりながらテレビの電源を付ける。テレビは再放送だった。これもすべて「やりたかったことリスト」にテレビ局員があった人たちがやっている。……それが本当なら。

「お父さん、今日はどうするの?」

 ご飯と味噌汁、それから焼き魚を出して、母さんは言った。

「ああ……家にいるよ。昨日、鈴木さんから要らないエンジンをもらってさ。それを修理して、何かに使えないかって。お前は?」

「わたしは公民館」

「またあれか。なんか、不思議な運動か」

「ヨガよ。いい運動になるんだから」

 母さんが食卓につく。

 みんな、『やりたかったことリスト』にチェックを付け始めている。みんな自分に正直になり始めている。コンペイトウがいたから、そうなったんだ。

 父さんが味噌汁を飲みながら新聞を広げた。新聞と言ってもたいそうなものじゃなくって、それも新聞記者という「やりたかったこと」をやった結果だ。毎日出るものでもなくて、何かニュースがないと回ってこない。ただでさえ田舎は情報が回るのが早いのだから、新聞もあくまで自己満足なのだ。

「はぁ、捕まったらしいな。こないだの誘拐事件」

「誘拐事件って?」

「ほら。園田のじいさんが失踪したって殺人未遂のやつ。捕まったのは柳井のじいさんだってよ」

「あらまあ。あの二人って、いっつも一緒にゲートボールしてたじゃない。それがどうして?」

「さあな。新聞にゃのっとらん。ま、ウワサには柳井のじいさんが学生のころ、園田のじいさんに虐められてたって。その腹いせを、世界が終わる前に果たそうとしたって話だよ。イヤだねぇ。世界の終わりは、復讐の最後のチャンスでもあるってか」

 父さんはそこまで言って、白米に手を着けた。

 みんなやりたいことをしている。

 最後のチャンスだから。

 でも、それは……。

 僕は、朝食が喉に通らなかった。


     *


 何とか朝食を食べてから、僕はドローン片手に浜辺へ向かった。

 砂浜にはテントと焚き火の燃えカスが残されていた。テントからは獣のにおい。人のにおい。体液。昨晩から今朝にかけたセックスの余韻。怠惰な昼下がり。

 僕はそんな浜辺から少し距離をとった。そして砂浜に寝そべって、海を見た。青い海。青い空。色は似てるようで、違う。あの向こうには本島があって、僕らとは違う色がある。

 昔、ある人が海にはたくさんの意味があると言った。母なる海。生物が産まれた場所。シー彼女シー、シーッ……静かにして……。

 かたわらに抱えたドローンが嘆いている。電源は落ちているはずだけど、そんな気がした。彼もやりたいことがあって、どこかへ飛びたがっている。そんな気が。

「そんなはずないのに……」

 呟いて、空を見上げる。

 すると、僕をのぞき込む顔が見えた。トモミだった。

「サクヤ君、何してるの?」

「……海、見てた」

「それは?」

「拾った」

「ふーん……。ねえ。となりいい?」

 うなずく。

 トモミは軽く笑って、僕の隣に寝そべった。二人で、白い砂浜に。左側にはセックスの名残。正面には母なる海。頭上には遙かなる空。右手には……彼女がいる。

「サクヤ君は、どこか行かないの?」

「どこかって?」

「ほら、ウチのお父さんやお母さんみたいに。『やりたかったことリスト』にチェックを付けにいくの」

「考えたことないんだ。なんか、こうしていることがやりたいことな気がして……。そういうトモミは?」

「わたしは……そうだね、わたしは……あるよ、チェック付けたいこと」

「それは、なに?」

「鈍感」

「は?」

 言葉を漏らす。

 わかってた。

 トモミのやりたいこと。それは、きっと左手がつかんでいる。僕の左手――それはいま、ドローンをつかんでいた。

 僕は重い腰を上げることにした。トモミは寝転がったまま。僕は立ち上がって、そのドローンからテープを剥がした。それからスイッチをオンに。まもなく、四枚の羽根が回転し出す。

 ふっと手を離すと、ドローンはそのまま宙に浮かび上がった。

 それからドローンは、まるで僕にお辞儀をするようにして前傾姿勢になり、それから急上昇。どこかへ飛び去ってしまった。青い空の、どこか遠くへ。

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青と渇き 機乃遙 @jehuty1120

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