サナトリウムは雲の色

鬼童丸

本文


 僕は毎日、電車に乗る。毎朝、地下鉄の電車に乗る。

 僕は前から2番目の電車に乗る。2号車の3番目のドアに乗り込めるようにホームで待つ。

 電車に乗ると、進行方向に対して左側のドアの前に立つ。5つ目の駅を過ぎたところで、適当な座席の前に移動する。

 そして8つ目の駅で電車から降りる。

 これらの一連の行為には多少の意味や理由があるんだけど、わざわざ説明するほどのことじゃない。だって、こんなものは無意識の行為じゃないか。何も考えなくたって、僕は当たり前のようにこれらのルーチンを毎日こなしている。

 だけど僕はある日、唐突に疑問を抱いてしまった。

 ――これは本当に、当たり前のことなんだろうか?


 確かに僕は今、単なる乗客の一人としてこの空間に溶け込んでいる。でもそれは、僕の何気ない振舞いが車内の常識に運良く合致しているだけなんだ。

 改めて考えてみれば、電車に乗るという状況は綱渡りをしているようなものだ。もし僕がいきなり叫び声を上げたらどうなるだろうか? もし僕が理由もなく隣の人を殴ってしまったら? そんなことはありえないだろうか。でも、もし本当にそんなことが起こったら?

 その途端に僕は異常者として背景から浮かび上がり、周囲からの冷たい視線に曝され、この密閉された車内で地獄のような疎外感に苛まれるだろう。

 底知れない同調圧力の力場の渦、その吹き溜まりで僕は仮初かりそめの安定にしがみついている。もしも何かの弾みでバランスを崩して転落したら、もう二度と戻っては来れないんだ。そしてその先に待ち受けるのは精神の死か、あるいは社会的な死か――とにかく、取り返しのつかない事態に陥ってしまうだろう。

 僕は徐々に不安を感じ始めた。心臓の鼓動が速く、荒くなっていく。胸が詰まって呼吸が苦しい。怖い。道を外れるのが怖い。一度きりの失敗が怖い。不安定が怖い。

 いっそのこと、今ここで本当に大声を上げてしまおうか。簡単なことだ。綱渡りで転落する恐怖から解放されるためには、自分から飛び下りてしまえばいい。僕は大変なことをしでかしたい衝動に胸を焦がした。

 電車が停まり、扉が開いた。乗客の何割かがホームに降り、ホームで待っていた人が入れ替わりで乗り込んでくる。扉が閉まると、電車は再び走り出す。

 我に返った僕は必死に呼吸を鎮めた。そしてできる限り平然とした表情を作った。大声で叫ぶだって? なんて馬鹿なことを考えるんだ、僕は。そんなものは破滅願望以外の何物でもないじゃないか。

 だけど、そうして常識で衝動を打ち消してみても恐怖は消えなかった。自分の行動がどんな事態を引き起こすのか、考えれば考えるほど恐怖が膨らんでいく。

 僕は再び二者択一を突きつけられた。このまま電車を降りるまで恐怖に耐え続けるか、あるいは車内の空気を徹底的に破壊するかだ。馬鹿げていると思うだろうか? だけど、恐怖に抗う方法なんてそれしかないじゃないか!

 言うまでもなく、僕はひたすら耐えることを選んだ。それができるなら、それに越したことはない。あと3駅、じっと大人しくしているだけでいいんだ。

 しかし、普通に振舞おうとすればするほど「普通じゃない自分」を想像してしまう。それは今の僕が辛うじて踏み止まっている常識の一線を踏み出してしまった自分だ。この狭い車内で、乗客という集団に溶け込めなくなる恐怖――それは刻一刻と鮮明になり、僕の鼓動を速めていく。

 電車が停まり、扉が開いた。

 目的地まであと2駅だ。その間、僕はこの恐怖に耐えられるだろうか。いや、耐えなければいけないんだ、お前には理性があるだろう、そうすれば自分の心なんてどうにでもなる。

 扉が閉まり、再び電車が走り出した。

 そうして車内が密室に戻ると、恐怖は再び理性を押さえつけて急速に膨らんでいく。額と背筋から冷や汗が噴き出した。食いしばった歯の隙間から呼吸が漏れる。

 ああ、そもそも僕はいつ気が狂うかも分からない。狂った僕に向けられる冷ややかな視線を想像すると、たまらなく恐ろしいんだ。そしてそれ以上に恐ろしいのは、僕が狂うために複雑な手順は何も要らないということ。ほんの一挙一動で届いてしまう距離に、周囲からの冷酷な軽蔑、社会からの逸脱、そして今まで積み重ねてきた人生の崩壊までもが、ドミノ倒しのように並んでいる。その一触即発の危うさが、僕の鼓動を速めて苦しませるのだ。

 次の駅へはまだ着かないのだろうか。意識ばかりが研ぎ澄まされて、段々と時間の感覚が曖昧になってきた。風景も見えない地下鉄の中では、本当に時間が流れているのかすら疑わしい。この胸のさざめきを、首に縄を掛けられているような恐怖を、一体いつまで耐えればいいんだろうか。

 いよいよ呼吸がつらくなってきた。僕はもう呼吸さえ意識的に制御しないといけない。そうしないと何か間違ったことが起こりそうで恐ろしかった。自らのあらゆる神経伝達に検問を施すんだ。それしか自分を守る方法がない。

 電車が停まり、扉が開いた。乗客の一部が降りて、ホームで待っていた人たちが乗り込んでくる。

 あと1駅だ。次の駅で僕は電車から降りて、この苦痛も終わる。だけど、僕はそれまで耐えられるだろうか? このまま扉が閉まれば、車内は再び密室になる。その中でお前は逃げることも叶わず、ずっと圧力に曝され続けるんだぞ。お前はそれに耐えられるのか?

 ――いいや、もう駄目だ、限界だ。たとえ僅か一駅を過ぎる間でも、僕はこれ以上この苦しみを味わうことに耐えられない!

 理性が霧散して希薄になっていくのが感じられた。もうどんな考えも意味を持たなかった。

 僕は声の限りに叫んだ。「あ」と「お」が混ざったような絶叫を、全身から迸らせた。何も見ずに、叫んで、叫んで、扉のほうへ走った。立っている人を突き飛ばし、乗り込んでくる人も突き飛ばして、電車を降りても走り続けた。

 行くあても無いままに、ホームの階段を駆け上がった。何も考えたくない。とにかくどこかへ行ってしまおう。僕はもう、どこにもいられない。


 町の中を走っていた。

 国道の脇にあるレンガ畳の歩道を、僕は一心不乱に走った。駅の改札を出たはずだけど、一体どうやって出たものか、さっぱり覚えていない。とにかく、ただ、足を止めたら何かに追いつかれてしまうような気がした。そんな気分にせかされて、ひたすら全力で走り続けた。

 道行く人をよけるつもりはないけれど、ぶつかるようなことはなかった。相手のほうが僕をよけているんだろうか。すれ違う人は背景のように視界の後ろへ消えていく。

 ずっと大声を上げているつもりなのに、もうすっかり喉が潰れて、吐く息は喉をガラガラと鳴らすだけで抜けていく。

 こうして走っていると、手足はしびれてくるし、胸もひどく苦しい。だけど不思議と心は穏やかになっていく。少なくとも今の僕は恐怖に囚われてはいないし、それどころか安心感のようなものさえ感じる。

 僕はもう何の義務も背負っていない。どんな振る舞いも求められていない。僕は空転する歯車だ。限りなく空虚で自由な、一枚の歯車だ。僕があるべき場所や役割は、ずっと遠くに捨ててきた。だから僕は、ただ遠くに走っていけばいい。間違って何かの弾みで、歯車が再び噛み合ってしまわないように、できるだけ遠くに行けばいいんだ。

 そうして走り続けていると、いつの間にか周囲の人影が疎らになっていく。やがて誰も見えなくなった。さっきまで聞こえていた雑踏も消え失せる。僕の走る足音と、空気が耳を伝う音だけが、淡々と聞こえていた。

 さらに走り続ける。道の両脇にある建物が疎らになってきた。横目に見えるのは、有刺鉄線で囲まれた雑草だらけの空き地。錆だらけの「月極駐車場」という看板が立てられた砂利敷きの駐車場。黄褐色の外壁にヒビが入ったホテル。シャッターを閉めたままの米屋や質屋。やがてそれすらもなくなると、道の両脇には広々とした草っ原が広がるだけになった。

 道路が片側一車線になったかと思うと、やがて中央線すらなくなっていた。そしてついに、僕の走る歩道がなくなった。レンガの舗装は雑草に掻き消されるようにここで途切れている。

 コンクリート舗装の車道に下りた。そういえばさっきから道路を走る車を見かけない。

 僕はもう走っていなかった。さっきまで何かに追われていたような感覚はあるけれど、それが何なのかは覚えていない。何であれ、きっとここまでは追ってこないだろう。そんな漠然とした安堵を感じていた。

 視界に映る空は、輝くように青く透き通っている。その中に、潰れた綿菓子みたいな雲が、ゆっくりと流れていく。広陵とした緑色の草原に、コンクリートの道が穏やかにうねりながら、どこまでも伸びている

 僕は大きく息を吐いて、歩き出した。特別な何かをしているわけじゃないけど、とても新鮮な感覚だ。こうして僕が歩いていることや、景色を見ていること、息をしていることさえも、素晴らしい体験に感じられた。

 そうだ、僕はきっと今まで、余計なことばかり考えていた。だからこの透き通った感動に気づかなかったんだ。しかし今の僕はどうだ。もう何も考えなくていい。何も決めなくていい。心は透明感に満たされて、風のように軽くなっていく。僕は、僕のためだけに生きていられるんだ。


 しばらく歩いていると、遠くにバス停が見えてきた。青いトタン屋根の下に、ベンチと時刻表が置かれている。近くに歩いていって見ると、そのベンチに人が座っていることに気づいた。若い男女の二人組だ。

 そこを通りかかるとき、僕はかすかに胸騒ぎを感じた。何かを忘れているような、胸の奥に針が刺さるような、その感覚は恐怖に似ている気がした。だけど結局、僕はその胸騒ぎに意識を向けず、彼らを一瞥することもなくバス停を通り過ぎた。

 これで本当に良かったのか? 何か気になることがあったんじゃないのか? 今からでも引き返して、バス停に戻ったほうがいいんじゃないのか? 胸の奥の針がまだ痛んでいる。 しばらく進むと、前のほうで何かが動いているのが見えた。あれは、バスだ。道路を辿ってバスがこっちに向かってくる。やがてバスは僕が歩く横を通り過ぎて、重たいエンジン音を鳴らしながら走っていった。

 少し歩いてから後ろを振り返ると、さっきのバス停にバスが停まっていた。ベンチに座っていた二人を乗せて、走り出すところだった。バスはそのまま僕の来たほうへ走り去り、やがてエンジン音も聞こえなくなった。

 いつの間にか、胸の奥の痛みが消えていた。


 またしばらく歩くと、今度は遠くのほうに大きな建物が見えてきた。まるで豆腐みたいな白くて四角い建物だ。壁には縦長の窓がたくさんついている。僕の歩いている道は、あの建物に続いているらしい。

 近くまで行ってみると、その建物の前には小さな駐車場があった。だけど車は一台も停まってない。人がいるような気配もない。

 建物の入り口は、観音開きのガラス戸になっていた。試しに戸を引いてみると、鍵は掛かっていないようだ。

 僕は深く考えず、建物の中に踏み入った。外観と同じように内装も飾り気がなく、壁も床もモノトーンの大理石で作られていた。入り口のすぐ左には守衛室か受付のような小窓があったけれど、やっぱり人の姿はない。突き当たりに見えるエレベーターホールには、左右3台ずつのエレベーターが向かい合っていた。エレベーターホールの手前には左右へ通路が伸びている。

 他のフロアを見てみようと思ってエレベーターのボタンを押したけど、反応がない。故障しているんだろうか。僕は諦めてエレベーターホールの前の通路を右に進んだ。どうせ知らない場所なんだから、どこへ行っても同じことだ。

 通路は4~5人が並べるぐらいの広さで、照明が弱いせいか少し薄暗い。壁には草花の絵が等間隔に飾られている。

 しばらく歩くと広い部屋に出た。さっきより天井が高いし、照明も明るい。部屋の隅のほうにカウンターと椅子が設置されていて、そこだけバーのような雰囲気になっていた。壁と床の内装も、その一郭いっかくだけ木目調の模様になっている。だけどカウンターの内側にも、外側の座席にも、人の姿は見当たらなかった。

 この部屋の大部分は何もない空間だけど、左奥のほうには2メートルぐらいの中二階があった。中二階には丸机と椅子が並んでいて、レストランか何かのように見える。この部屋から階段で上れるみたいだけど、相変わらず人の姿はない。

 階段の隣には、中二階の下を通り抜ける通路があった。幅は狭いし、天井もあまり高くなさそうだ。通路に照明はないけれど、奥のほうに小さな光が見えた。建物の外に繋がっているのかもしれない。

 僕はその通路に入ってみた。随分と長い通路だ。奥へ歩いていくほど、前に見える光が大きくなっていく。だけどまだ外の景色は見えない。石造りの床がコツンコツンと足音を響かせる。そのたびに、行く先に見える白い光が四角く広がって、僕を包み込んでいく。

 そしてついに、僕の視界を光が覆い尽くした。


 穏やかな風が、僕の頬を撫でている。建物の外に出たんだ、ということに気づいた途端、ふっと視界が広がった。

 目の前には草原が青々と輝き、その向こうには真っ青な海が水平線まで広がっていた。ガラスみたいに澄み渡った空に、白い綿雲がゆっくりと流れていく。

 空気はヒンヤリと涼しい。僕の立っている場所は日陰になっていた。建物の外周に沿うように、3メートルばかりひさしが張り出しているためだ。さっきの薄暗い廊下と、庇の外の眩しさ――その両方に似通った仄かな明暗の中に、僕は立ち尽くしていた。

 ここは本当に、今まで僕がいた場所と同じ世界なんだろうか。そよ風に吹かれた芝の葉が草原からゆるりと舞い上がり、魚が泳ぐようにたなびきながら空へ昇っていく。淡青色の海面に群青で描かれた星形の潮模様は、息づくように膨張と収縮を繰り返している。青空をゆるやかに渡る純白の雲の後ろには、ダイヤモンドのような光の粒子が尾を引いて、キラキラと輝きながら地上へ散らばってくる。

 自然と涙がこみ上げるほど穏やかな風景だった。穏やかな風景があって、それ以外には何もない。あえて言うならばだ。いつだか何かの歌に聞いて憧れていたが、ここにはあった。だけどもう、歌も忘れていい。だって、今こうして目の前にあるものだけが僕の全てじゃないか。

 一体、今までの僕は何をしていたんだろうか。何のために生きていたんだろうか。もしかして、僕は今しがた生まれたばかりなのだろうか。そういうこともあるかもしれない。少なくとも僕は、どんな過去からも未来からも解放されている。これだけは確かな実感だ。


 そうして風景を眺めたまま、どれだけの時間が過ぎたんだろうか。降り積もっていく時間があんまり透明だから、それがどれだけ積もっているのかもハッキリしない。

 僕の時間を動かしたのは、一つの音だった。左のほうから聞こえてくる、カラカラと車輪が回る音。

 僕は左を見た。建物の外周を囲むアスファルトの歩道は、庇に守られてかすかに暗い。その歩道の上で、水色の看護服を着た女性が、乾いた音を響かせながら車椅子を押していた。彼女はこちらに近づいてくる。

 車椅子に座っているのは、綺麗に整った白髪頭の男性だった。背筋はまっすぐ伸びているけれど、眼差しはぼんやりと虚空を見つめるばかりで、身じろぎもしない。

 僕はその場に立ち尽くしたまま、車椅子に視線を向けていた。女性は僕が見えていないのか、気にとめていないのか、僕には目もくれずに平然と車椅子を押していく。そして車椅子が横を通り過ぎるとき、僕はもう一度男性の顔を見た。

 僕と男性の目が合った。男性を顔を動かさず、ぼんやりとした視線だけを、僕のほうに向けていた。

 僕は驚いてハッと息を詰まらせた。耳の奥で、風の唸るような音が聞こえる。グラリと視界が揺らいだ。徐々に焦点が定まらなくなっていく。何もかもぼやけて見えなくなっていく――。


 車輪の振動で目を覚ました。僕は車椅子に座っている。

 目の前にはアスファルト舗装の散歩道、その向こうには眩しいほどの草原と海、そして空。とても穏やかな、僕の心を落ち着かせる風景だ。

「どうかなさいましたか?」

 後ろから声が聞こえた。振り向くと、水色の看護服を着た女性が優しげな笑顔を僕に向けていた。なんだか久しぶりに会ったような気もするし、さっき会ったばかりのような気もする。

 僕は声の出し方を確かめるように、返事をした。

「いいや、なんでもないよ。ちょっと夢を見てたみたいだ。変な夢だった。妙に現実味があって……」

 僕は空を見つめて、さっきの夢のことを思い出していた。だけど、つい今しがた覚えていたはずなのに、上手く言葉にできない。まるで空中の羽毛を掴むように、記憶はかすかに触れては遠ざかっていき、ついには何も思い出せなくなってしまった。

 僕は結局、曖昧な気分のまま、彼女との話をこう打ち切った。

「――だけど、ただの夢だ」

 すると女性は穏やかな声で「そうですか」と答えて、再び車椅子を押し始めた。心地よい車輪の振動が身体に響く。

 僕は景色の眩しさに目を細めた。草原を渡る澄んだ空気が頬を撫でていく。空も海も草原も、静かに輝いている。

 このままでいいんだ。何もかも、このままでいい。

 空の真ん中には純白の雲が、まるで止まっているかのようにゆっくりと、ゆっくりと流れていた。

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サナトリウムは雲の色 鬼童丸 @kidomaru

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