弟の事情


 理性を抑えられず姉貴にぶつけてしまった昨夜の出来事を頭に抱えて、俺は今日一日ずっとため息ばかりついていた。


 朝起きれば母さんと義父とうさんはいたが、いつも一番遅く家を出るはずの姉貴がすでに大学に行ったという。

 避けられたのは火を見るよりあきらかで、やっぱ舌入れたのはやり過ぎたかと反省した。

 でも、後悔はしていない。


「侑二〜、今日の帰り付き合ってー」

「無理」


 ここ最近なぜか俺の周りをうろつく男の誘いを秒速で断り、俺は適当にかばんに荷物をつめてさっさと教室を出て行く。

 昨日は結局あのまま何も話せず終わってしまったので、今日は絶対に姉貴を捕まえて話したいことがあった。


「そんなつれないところも好き! ほら、もうすぐ期末だろー? マック行こうぜマック」


 気持ち悪いことを堂々と言いながら、断ったのにそいつはついてくる。

 いつもならそれに諦めた俺が折れるところだが――こいつは言っても聞かない奴だ――あいにく今日は本当に無理である。


「悪いけど大和、今日はマジで無理」

「そんなっ、俺フラれたの!?」

「ああフッた。じゃあな」

「行かないで侑二! やっぱり私は二番目だったのね!」


 ふざけ出した大和は放っておいて、俺はそのまますたすたと昇降口に向かう。

 放課後の昇降口は人が多くて、雑音が酷いからさっさと通り抜けるに限る。


「おーい、侑二マジで帰んの?」

「何度も言わせ……」


 そのとき、俺のポケットに入っていたスマホが震えた。

 今日は母さんは夜勤で、義父さんもいつもの如く帰りが遅い。今日も今日とて忙しい医者の両親に変わり、夕飯は俺と姉貴の交代制で作っている。そして今日の当番は俺だった。

 もしかして姉貴から、それについて何かラインが来たのかもしれないと思った俺は、すぐに立ち止まりスマホを確認する。


「……」

「急になに。誰から連絡ー?」

「大和」

「はいはい」

「シュゼールってどこだ」


 ラインのメッセージを読んだ俺は、にっこりと大和に微笑みかける。


「シュ、シュゼール? ってもしかして、最近女の子に話題のカフェ……」

「案内しろ」

「え」

「いいから急げ。――あのバカっ」

「ちょっ、侑二!?」


 俺は全力で駆け出した。

 ラインのトーク欄には、「いい虫接近」と姉貴の親友からのメッセージが届いていた。



 * * *



「で、さっきのあいつ、姉貴の彼氏?」


 大和に案内を頼んだ俺は、その店にたどり着いた瞬間に視界に入った姉貴と知らない男の姿に、頭に血がのぼるのを感じていた。

 道に面した席がガラス張りになっていたおかげで、俺の目には楽しそうな姉貴の姿がよく見える。

 店内は女ばかりで、男が入るとしたら彼女連れでないと無理だろうなと思われるカフェだ。

 だからこそ、自分で到達したその考えに、俺は周りを気にする余裕もなくなっていた。


 


 先に外に出て、姉貴が来るのを無言で待つ。

 そうしてようやく店から出てきた姉貴に、俺は開口一番男の正体を訊いていた。


「え? 違う違う。柳原くんは友達だよ。それよりあれ、ゆうくんの友達は?」

「帰らせた」

「よかったの?」

「今度埋め合わせするって言った」

「そっか。じゃあこのまま一緒に帰る?」

「その前に、本当にあいつ、姉貴の彼氏じゃないんだな?」


 何事もなかったように冷静な姉貴が、このときばかりは腹立たしくて仕方なかった。

 だって俺は、姉貴が知らない男といるだけでこんなに焦ってしまうのに、姉貴はなんてことないように落ち着いているから。


 じっと姉貴を見つめて、俺は声も聲も聞き逃さないよう、耳を澄ませる。


「もう、本当に彼氏じゃないってば。あの人は柳原くんっていって、ひよりの彼氏の友達だよ。ひよりのことは知ってるでしょ? 前にちょっと教えたもんね。その繋がりで知り合っただけだよ」

(柳原くんが彼氏って。周りからだとそんなふうに――あ、見えるかもしれない)


「へぇ……? じゃあ、好きな奴?」


 姉貴の心の聲に、俺は自分の目が細くなったのを自覚する。


「ねぇ、なんか、今日のゆうくん変じゃない?」

「それは姉貴のほうだろ? 昨日の夜、俺と何したか覚えてない? 俺とキスしたいって言って唇を奪ったのは、姉貴のほうじゃなかったっけ?」

「っ!」


 あまりにイラついていた俺は、自分でも意地の悪いこと言ってんなと分かってはいたけれど、どうしても言わなきゃ気が済まなかった。

 だって、なんで姉貴はそんな平然としてるわけ? まさか昨日のあれをなかったことにするつもりなんじゃないかと、俺だって不安になる。

 それだけは絶対に嫌だった。


 すると、俺の言葉に姉貴の顔が見る見る真っ赤になっていく。その反応には、さすがの俺も予想外で面食らってしまった。

 もしかして、今まではずっと平然を装ってただけだというのだろうか。だったら凄いんだけど。姉貴そんな才能あったの? そんなのいらないから今すぐ川にでも流してこいよ。

 

 俺は真実を確かめたくて、さらに追い詰めるようなことを言う。


「俺のここ、奪ったよな?」


 とんとん、と人差し指で自分の唇を指し示してやれば、それだけで姉貴の顔から火が吹いた。

 ……あーやばい。ちょっと楽しいかも。


(ゆ、ゆゆゆゆうくんが小悪魔になっちゃった……!)


 ――おい。

 しかし聞こえてきたその聲には、思わず眉間にしわを寄せてしまう。

 なんだ小悪魔って。男に使ってもかわいくもなんともないからなそれ。


 ちょっとズレたことを思う姉貴は無視しておいて、俺は続きを口にする。


「なあ、奪ったよな?」

「うば、うば、い、ました……!」

「だよな。なのに姉貴は、もう他の男のところに行くわけ?」

「へ?」

(他の男……? あ、もしかして柳原くんのこと?)


 そこでやはりさっきの男を思い浮かべた姉貴に、俺は内心で青筋を浮かべた。


「姉貴の親友はさ、本当に友達思いだよな。姉貴に変な虫がつかないよう見張ってもらってたんだけど、ほら、こうやって連絡くれたんだ。それで姉貴に訊きたいんだけど、この『いい虫』ってどういう意味?」


 俺がスマホの画面を見せてそう言うと、姉貴が驚愕の瞳で画面に釘付けになる。

 トーク画面の一番上にある名前は、戸松ひより。姉貴の親友で、実は俺が買収している人である。

 

「なんでひよりがゆうくんと……!?」

「戸松さんが今の彼氏と付き合えるように、ちょっとしたお手伝いをしたんだよ、俺」

「お、てつだい?」

(そんなの聞いてないんだけど!)


 姉貴の心の聲に、そりゃ言ってないからなと俺は内心で零した。

 この人を買収するために、俺はそれはもう恋のキューピッドよろしく頑張ったのだ。

 せっかくある"力"なんだから、使えるもんは使っとかないともったいないだろ?


「ま、そういうわけで。悪い虫なら分かるんだけど、『いい虫』ってのが分かんなくてさ。まさかさっきのあいつ、戸松さん公認だったりする?」

「公認、かどうかは知らないけど、柳原くんは本当にいい人なんだよ。いい人過ぎて、かわいそうなことにそこで終わる人、っていうか……」


 気まずそうに姉貴が答えた。

 なるほど。つまり『いい人止まり』というタイプの男らしい。

 しかし油断してはならないのが、案外そういうタイプの奴だったりする。一見無害そうな奴だとしても、その実は分からないことも多い。


「とりあえず、家に帰ったら覚悟しとけよ、姉貴」


 そう言って、俺は困惑している姉貴の手を問答無用に掴んで歩き出した。



 * * *



 帰宅したころには、もうすでに19時を回っていた。

 手を繋いで帰っていた間、姉貴はずっと顔を俯けていて、終始無言だった俺たち。まあ人の心の聲が聞こえる俺の耳には、なぜかずっと英単語を呪文のように唱えている姉貴の聲が聞こえていたんだけど。

 

 しかし家の中に入った途端、姉貴が素早く俺の手をほどいたと思ったら、そのまま自分の部屋へと駆け込んで行ってしまった。

 それまでが大人しかったから、すっかり油断していた俺は簡単に姉貴の逃走を許してしまう。


「やられた」


 まさかこのまま俺を避ける気だろうか。だがしかし、それを簡単に許す俺ではない。

 と、思っていたら。


「ゆうくん!」


 バンッと勢いよく自分の部屋の扉を開けて、そこから姉貴が出てきた。

 そのときの姉貴の格好は、自分の目をこれでもかと疑いたくなるほどの、目のやり場に困る姿で――


「ばっ――なんてもん着てんの姉貴!?」

 

 透け感のある淡い黄色のレースがふわりと舞う。最初はキャミソールかと思ったそれは、でも胸元がまるでブラのようになっていて、俺の知っているキャミソールとはちょっと違う。ちらりと覗く胸や太ももの艶かしさに、俺は自分の顔が熱くなったのを自覚する。


「ゆうくんが好きです! これで誘惑されてくれませんかっ」


 そのとき、俺は自分の耳までも疑った。


「や、あのね、これはさすがの私もどうかと思ったんだけど、前にひよりにアドバイスもらってて……っ。これなら堅物のゆうくんでもきっと誘惑されてくれるから、告白するときは、その、これ着なさいって……」


 言っててだんだんと恥ずかしくなったのか、姉貴の声がしぼんでいく。その頬は、たまらずかぶりつきたくなるような苺の色をしていた。

 

 とりあえず、言わせてほしい。

 戸松さん。あんた人の姉貴になんてことを吹き込んでくれてんだ。

 

「あの、ゆうくん……?」

「っ、」


 気づいたら、すぐ目の前に姉貴がいた。

 ふわりと香る甘い匂いに、俺はハッとなって思わず零す。


「この、匂い」

「え? ああ、この香水のこと? だって、ゆうくんがいい匂いって言ったんだよ?」

「なんで……。ここぞというときにつけるんじゃなかったの?」


 呆然としながらそう口にするが、でも俺は、本当はすでに分かっていたのかもしれない。姉貴から、、その香りがする理由わけを。

 それでもたぶん、俺は姉貴の口からその答えを聞きたかったんだと思う。


「そりゃあだって、今がここぞというときだし? それにね、実は私、家でしかこの香水つけてないんだよ」

「……それは、つまり?」

「ゆうくんを誘惑するため」

「マジか」


 じゃあなにか? その匂いが香るたび、好きな男に会ってたのかよとひがんでた俺は、つまり自分自身に嫉妬してたってことか?


「なにそれちょーかっこ悪いじゃん俺……」


 思わず手で顔を覆って天井を仰ぐ。

 

「そ、それで、誘惑、されてくれる……?」


 そんなもん、最初から決まってる。


「言われなくても。知らなかった? 俺、とっくに誘惑されてるから」

「!」


 俺が何のために、今まで偽の惚れた相手を見繕ってたと思ってんだ。それはひとえに姉貴に手を出さないためである。

 いっときは、あわよくば姉貴以外を好きにならないだろうかと、そんなことも考えた。

 自己暗示のように他に目を向ければ、望みが薄い姉貴のことを、忘れられるんじゃないかと思って。

 だって姉貴は、俺の姉とか関係なく、好きな男がいるみたいだったから。


「そうだよ、ちょっと待て。姉貴って好きな男いるんじゃなかったの?」


 これは大事だ。ちゃんと確認しておかないと。


「うん、ゆうくんのことだけど?」

「え? いやいや、だって」


 俺が姉貴に好きな男がいると知ったのは、俺が姉貴に一目惚れしたその日である。

 それじゃ計算が合わない。


「ゆうくんは覚えてないみたいだけど、実は私とゆうくんって、ゆうくんが中学3年生のときに一度会ってるんだよ」

「は? いつだよそれ」

「冬の終わりくらいでね。ゆうくんが告白されてた。私が以前住んでた家の前で」

「告白……家の前……?」


 そのとき、俺の頭の中で一つの記憶が甦る。

 帰宅途中に呼び止められて、全校集会という拷問を耐え抜いた俺に、さらに追い打ちをかけるような告白をされ、それを近くの家人に見られたという、苦い記憶を。

 確か、その家人の女は、バイトがどうのこうのと内心で慌てていたんだったか。

 

 まさかそれが姉貴だったとは。


「……バイトは間に合いましたか、先輩」

「あはは……間に合わなかった」


 あ、なんかごめん、姉貴。

 色んな意味で、俺は姉貴に謝りたい気分になる。

 でもそこで、俺は「ん?」と気づく。


「あの、さ。姉貴。なんで俺が姉貴のバイトのこと知ってるのって、思わねぇの?」


 そう、これだ。違和感の正体は。

 あのときの姉貴は、それを一度も口にしていない。俺が勝手に聞いてしまっただけなのだから。


「うん、それについても、色々と話したいかな」




 そしてその後に聞かされた姉貴の話に、俺は驚きを通り越して放心してしまった。

 だって、まさか自分と同じこの能力を持っている人間がいるなんて、普通思わないだろ? しかもこんな近くに。

 

 続いて俺を襲ったのは、たくさんの羞恥である。

 姉貴の手を繋いで帰宅していたとき、俺はずっと考えていた。姉貴に、その心の聲を聞かれているとも知らずに。


(とりあえず、好きな男のことは吐かせるまで問い詰めるとして)

(あー……もういっそ告白でもしてやろうかな)

(だから嫌だったんだ。一度キスなんかしちまうから、俺もう忘れられねぇじゃん)

(もういいわ。今度は俺が誘惑するか? え、誘惑って寝込み襲えばいいの?)

(あーやばい。そんなこと考えてたら昨日のキス思い出しちまったじゃねぇか。どうしようまたしたいんだけど。今度はもっと貪り尽くしてとろとろになった姉貴が見てぇな)

(んで、あわよくばそのまま……)


 いやもうほんと。終わったわ。マジでプレパラート並みの俺の心は跡形もなく砕け散ったわ。どこの盛った犬だよ俺!

 姉貴は俺の力のことを知ってて、俺は姉貴の力を知らなかったって不公平じゃね?

 

 でもこれに関しては、そのおかげで姉貴が告白を決心したというのだからもう……なんていうかね。

 申し訳なさそうに謝ってくる姉貴を俺はすぐに許していた。

 それに心の聲が聞こえるのは、お互い様なわけである。なんなら姉貴は触れないと聞こえない分、俺のほうが力は強いらしい。

 

 でもこれで納得した。

 いつも肝心なところが聞こえなかった姉貴の聲は、そりゃ本人がバレないよう細心の注意を払っていたのならそれも頷ける。

 どうやら呪文のように繰り返していた英単語は、その対策の一つだったらしいと聞いて、俺は思わず吹き出していた。


 

 互いの秘密がなくなったその日。

 俺はせっかく誘惑してくれた姉貴を心ゆくまで堪能して、今まで我慢していた分、たっぷりと姉貴をいじめてやったのだった。

 



「ね、ゆうくん」

「ん?」

「私のこと、夏希って呼んでくれないの?」

「……呼んでほしい?」

「うん」

(ぜひとも)

「どうしようかなぁ」

「なんでそこで悩むのっ」

(せっかくゆうくんが彼氏になってくれたのにっ)

「ふ……うん、そうだな」

「ゆうくん。私の心で遊んでるでしょ」

「や、ごめん。面白くて」


 これは、俺たち2人だけの秘密。


「ひどい!」

「代わりにほら、姉貴も俺の聞く?」

「……聞く」

「ふはっ」


 こんなにも夢中になれる存在に出会えたのは、互いの力のおかげだろう。


(俺も好きだよ、夏希)


 そうして今日も、俺たちは2人だけの会話を楽しむのだ。


「ゆうくんそれはずるい!」




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坂本家のちょっと変わった姉弟事情 蓮水 涼 @s-a-k-u

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