姉の事情


 私がそれを見たのは、本当に偶然だった。


「私、坂本くんのことが、好きなんです。付き合って、くれませんかっ」


 見ているこちらにまで胸のどきどきが伝わってきそうな、そんな真っ赤な顔で。

 私の義弟ことゆうくんは、またもや家の前で告白されていた。


(デジャヴ……)


 ただあのころとは住んでいる家が違うので――父が新しい家族用に新しく購入――全く同じというわけではない。

 そもそもゆうくんだって高校生で、そして私は今家の中にいるわけじゃない。

 

 そう、授業が教授の都合で急な休講となってしまったため、私は予定より早めの帰宅をしているのだ。

 そしてちょうど私が今隠れている塀を曲がれば、家まであと8メートルほどというところで、私は自分の足に急ブレーキをかけていた。

 

 自分でも思う。

 私はなんて間の悪い女なのだろう。漫画のヒロインいけるんじゃないだろうか。


 私の位置からでは、ゆうくんはちょうど背中を向けていて彼の表情は窺えない。

 しかも力み過ぎていて声の大きかった女の子と違って、ゆうくんの声はいたって冷静なのか、私のところまで言葉は聞こえてこなかった。かすかに、ゆうくんが何かを喋ってるな、くらいの気配が届くだけである。


 ゆうくんは彼女の申し出を受けるのか、受けないのか。

 固唾を飲んで見守る私の目の前で、それは起こった。


「っ!?」


 ゆうくんが何かを喋った後、首を強く横に振った女の子が、突然、ゆうくんへと手を伸ばす。

 背が高いゆうくんの顔を掴んで引っ張って。女の子が背伸びした。

 

 2人の顔が、綺麗に重なる。


「う、そ……」


 私の位置からは、ついにゆうくんの背中しか見えなくなってしまう。

 でも、そんなことはもうどうでもよかった。というより、その後のことは頭が真っ白になってしまったせいで、視界には何も映らない。


 これは誰が見てもあきらかだ。

 ゆうくんが、告白を受け入れた。

 どうやら私は、漫画のヒロインなんかじゃない。ヒーローの姉という、いてもいなくても変わらない、ただそれだけの存在だったらしい。



 その後嫉妬から暴走した私は、最終的に自分のベッドの上で、色んな意味で眠れぬ夜を過ごしたのだった。



 * * *



 義弟に彼女ができました。

 そう報告すれば、目の前の友人はこれでもかと目を大きく見開いた。


「義弟……『ゆうくん』にか?」


 私は神妙に頷き、そしてこうも言った。


「だから義弟にキスを迫ってみました」

「ぶっ」


 すると今度はむせた後、目ではなく口をあごが外れそうなくらい大きくひらいてくれました。


「おま……キスを迫ったんか!?」

「ええ、迫りましたとも」

「真顔で頷くなや。俺はどう反応したらええんや」

「笑ってください。バカな女だと嘲笑してくれれば結構です」

「やばいあかんわ面倒くさいわおまえ」

「……チッ、この似非えせ関西人が」

「うっさいわ! 仕方ないやろ出身が岐阜で微妙なところなんやから!」

「全ての岐阜県民に謝ってください」

「おまえがな!」


 さて、紹介が遅れました。

 私の隣でテンポよく会話してくれる彼は、大学に入ってからの私の友人だ。

 柳原智己ともき19歳。といっても同じ大学1年生である。

 もともと私の高校からの親友を介して知り合った人で、つまるところ、親友であるひよりの彼氏の友人だ。

 

 そして今、私と柳原くんは構内にあるホール食堂へとやってきていた。

 親友カップルは今日は仲良くイチャつきDAYらしくこの場にはいない。


「バカップル……いいなぁ」

「いや、そこバカップルを羨むんか? カップルやなく?」

「うん、羨ましい。私もゆうくんと所構わずイチャ……」


 つきたい、と思ったけど、そこで昨日の出来事が脳内に甦ってくる。

 おかげさまで「頼むからTPOは弁えろ」という柳原くんのお願いは聞こえていない。

 

 必然と熱が這い上がってくる頬を両手で覆うと、私はテーブルに突っ伏した。

 大学の食堂は時間帯も時間帯だから、大勢の学生やらで賑わっている。がやがやとしたその雑多な音が、羞恥に燃え上がるこの心にはちょうどいい。

 そんな私に気づいたのか、柳原くんが心配そうな声音で問いかけてくる。


「おい、どした? 気分でも悪くなったか?」

「ううん。ゆうくんとのチュー思い出して悶えてた」


 若干自暴自棄になっていた私は、恥ずかしげもなくそんなことを口にする。


「……おまえ、たまに凄いこと平気で言うよな」

「そう?」


 そんなに頻繁に言った記憶はないのだけど。


「てか、え、ほんまにキスしたんか?」

「した」

「マジで!? 迫って成功したん!?」

「無理やり奪ったのは成功に入る?」


 そう、昨日のあれは誰がどう見ても私がゆうくんの唇を奪ったと証言するものだろう。

 その後のゆうくんの少しだけ強引なキスは、置いとくとして。


「おいおい何してん。また変な方向に突っ走ったな」

「えへ」

「キモイ。褒めとらん」


 うん、自分でも思った。


「で、おまえのことやから、襲ったのはいいけどその後のことで悩んどるんやろ?」


 ニヤリと意地の悪い笑みを見せられて、私は喉奥でうなる。

 鋭い。さすが私たちの中で一番の気遣い屋だ。私のように人の心の聲が聞こえなくとも、彼はまるで聞こえているように細かいことまで気づいてくる。

 おかげで誰も彼には隠し事ができない。


「だって、ほとんど勢いで行っちゃったから、その後のことなんか考えてなかったんだもん。ゆうくんに彼女ができたんだよ? 冷静になって考えたら、私って浮気を誘ってる酷い奴だよね!?」

「今さらそこに気づくんか。遅くね?」

「うっ。そんなこと言って、柳原くんは好きな人が目の前で自分じゃない人とキスしたところ見たことある? ドラマや漫画でもないのにこの確率当てるって凄くないっ? 最悪だよ!」

「まあそれは……確かに最悪やな」

「でしょ!?」


 現実世界でそんな事件がほいほい起こってたまるか。

 色々と頑張ってアプローチしてたけど、その上で選ばれなかったというのは自分を全否定されたみたいで余計に辛い。


「でもなぁ、俺は違うんやと思っとったけどなあ」

「なにがー?」


 昨夜のキスを思い出してちょっと幸せになるけれど、でもゆうくんに彼女ができたという現実を思い出して落ち込む私は、もうなんのやる気も起きてくれない。

 突っ伏したまま、気力のない返事をする。


「そのゆうくん、俺はおまえのこと好きなんやと思っとったで?」

「柳原くん……」


 もしかして慰めてくれているのだろうか。

 なんていい奴。


「やって、風呂上がりにたまたまかちあったら逃げられ、水着姿見せたら顔を逸らされ、寝起きにどさくさに紛れて起こしに来てくれたゆうくんに抱きついたら頭をはたかれ……」

「ちょ、待って。なんか私かなり変態みたいなんだけど」

「安心せえ、変態や」


 酷い! さっきの私の「いい奴」発言、返してくれないだろうか。

 だいたい、私だって最初はそこまで変態じゃなかった。

 全然振り向いてくれない頑固なゆうくんが悪いと思う。

 しかも柳原くんが上げた例、偶然も入ってるからね? 全部が私の故意じゃないからね!?


「とまあ、俺としては、好きな女子に見せる思春期の男の反応やと思っとったわけなんやけど」

「え、どのへんが?」

「まあ例えばの話な」

「自分で私に希望を与えておきながらすぐにそれを折るってどういうこと」

「――よし、やったら俺がひと肌脱いだるわ!」

「遠慮します」

「即答かい!」


 だってなんだか嫌な予感しかしないんだもの。

 いや、分かってるよ? 柳原くんはなんだかんだいって頼りになる男だ。

 でもなんとなく、私も柳原くんが思い浮かべた『ひと肌脱ぐ』というのが何を指すのか分かってしまったのだ。


「まさかゆうくんの前で彼氏のフリとかお約束的なことしないでしょうね?」

「そのまさかやけど」

「却下。ゆうくんにこんな人が彼氏だなんて誤解されたくないもん」

「おまえほんまに俺に失礼やな」

「だって柳原くんだから」

「答えになっとらんぞ」


 でもこれは、私なりの好意表現でもあるんだけどね。ちょっと自分の力のせいで一時期塞ぎ込んでしまってから、私は当たり障りのない人間関係しか築いてこなかった。

 だからここまで突っ込んだことが言えるのは、逆に親しい人だけである。

 そして彼も、本当はそれに気づいているのだろう。

 だからいつもこんな私を許してくれる。


「……柳原くんって、実はいい男だよね」

「おう今さら気づいたか。てか急になんでそんな話?」

「んー……ふと思ったから」

「おまえは相変わらず変な女やな」


 はは、と柳原くんが笑う。

 これにカチンときた私は、彼が最後の楽しみに取っておいたチョコレートを、問答無用に一口で食べてやった。


「ふざけんなや!」



 * * *



 結局、私の悩みは解決されないまま、どうにも気分が上がらなかった私を景気づけようと、柳原くんが授業終わりにカフェに誘ってくれた。

 もちろん親友バカップルも誘ってみたが、奴らは今日は仲良くイチャつきDAYだからと笑顔でデートに行ってしまう。


「ふ、やはり女の友情は儚いのね……」

「ノーコメントで」


 街に出た私たちは、最近雑誌やテレビでよく見かける、ガレットが有名なシュゼールというお店に来ていた。

 あきらかに周りは女の子しかいない雰囲気の中、それでも文句ひとつ言わず私の指定した店に連れて行ってくれる彼は、やっぱりいい奴だ。

 ただ残念ながら、彼の場合はその「いい人」止まりであるところが否めないのだけれども。


「すげ。これ美味いな。クレープこんなんで食べたことないわ」

「だからクレープとはちょっと違うんだって」


 私たちはそれぞれ自分が注文したガレットをもぐもぐと頬張る。小麦粉で作るクレープとは違い、ガレットはそば粉で作られているようで、かくいう私も正直その違いはよく分からない。

 ちなみに私が頼んだのはデザート系のガレットで、レモンクリームの酸味と生地に練りこまれた紅茶の風味が抜群に美味しい。

 柳原くんは食事系のガレットで、中には目玉焼きやチョリソーや名前も知らないたくさんの野菜が溢れていて、いかにも少しお高めのホテルの朝食として出てきそうなガレットだった。

 

「それで、これからどうするかは決めたんか?」


 ガレットの味に感動した後、柳原くんが私に尋ねてくる。


「それなんだけどさ。襲った私がゆうくんを避けるのって、なんか違うと思わない?」

「まあ、そうやな」

「こうして落ち着く時間ももらったし、たぶん大丈夫だと思う。ようは、イチャつく2人を見なければ問題ないと思うんだよね」

「ふーん。おまえがそれでええんやったら俺はなんも言わんけど」


 ちょっと心配そうに覗き込んでくる瞳を前に、私はうまく笑えただろうか。

 眉尻がほんの少し下がったのはご愛嬌と思ってもらいたい。

 

「はぁでも。そう思うと……彼女かぁ……」


 なんだかしみじみとダメージがくる。

 

(私も彼氏作ろうかな。そうしたら気にしなくなるかな?)


「あ、おまえのもちょっとちょうだい。俺これだけじゃ足りん」

「はいはいどーぞー」


(そういえば、柳原くんは好きな子とかいるのかな?)


 いつも人の相談に乗ってばかりのこの人は、悩みがあるとき誰かにちゃんと相談とかしているのだろうか。そんな疑問がふと浮かんだ。


「ねぇ柳原くん。そういう柳原くんって、好きな子とかいるの?」

「んー? おへ?」


 口にガレットを押し込んでいるせいで、うまく口が回らないらしい。たぶん「俺?」と言ったのだろう。


「あー俺は……」


 咀嚼しながらそう言う彼は、途中何かに気づいたようにその視線がぴたりと止まった。

 あきらかに私の頭上を通り越してその後ろを見ているだろう彼は、上手にフォークで口元に持っていこうとしていたガレットをその手前で落とす。

 まるで石化したような固まり方だ。


「ちょっと柳原くん、ガレットこぼしてるけど」

「――いや、いやいやいやいや」

「? どうしたの?」


 視線を固定したまま、彼は壊れたロボットのように首を振る。その異様さに、私も後ろに何かあるのかと振り返ろうとした。

 しかしそのとき、突然左腕をぐいっと引っ張り上げられる。


「っ、ちょ」


 誰? と非難の意を込めて振り向けば、なんとそこにはゆうくんがいて。

 私は自分の目をぱちくりと瞬いた。


「姉貴、男にはフラれたんじゃなかったの?」


 現れて早々そんなことを言われれば、私は自分でも分かりやすく目を眇める。

 だって、ゆうくんがそれを言うなんて。


「……ゆうくんには関係ないでしょ。それよりなんでこんなところに?」


 しかし訊いた瞬間に私は後悔した。

 こんな女の子だらけのところ、ゆうくんが1人で来るはずがない。

 来るとしたら、それは――


「ゆうじ待って、速い……っ」


 ゆうくんの名前を呼びながら現れた人に、私はその声音から自分の予想が大きく外れたことをすぐに知る。

 聞こえてきたのは、男の子のものと思われるテノールだ。

 

「いきなり店入るなんてなんかあっ――――た感じですねこれ。え、なに。もしかして修羅場? 俺ってお邪魔な感じ……」

「うるさい大和。黙れ」

「ですよね!」


 ゆうくんとは違い明るく長めの髪を耳に流しているその男子は、ゆうくんの怒りに素早く反応して口を閉じる。

 もしかしなくとも友達だろう。


(なんだ……今日は違うのか。よかった……)


「全然よくねぇよ」


 すると、地を這うような声で、刃のように鋭い目つきで、ゆうくんが私を睨んでくる。

 でもその言葉が私の聲を聞いて反応したものだと、彼は分かっているのだろうか。

 このままでは、へたしたらゆうくんが変な目で見られてしまう。現に急にそんなことを言ったゆうくんに、彼の友達も柳原くんも、不思議そうな顔をしていた。


「ゆうくん、とりあえずここお店だし、いったん外に出よう?」

「……」

「ね?」

「……待ってる。3分以内な」


 周りをちらりと見て、状況を察してくれたゆうくんはそれだけ言うと、すぐに店を出て行った。

 どうやら彼らはもともとこの店にいたのではなく、もしかしたら私を見つけて中に入ってきたのかもしれない。


「なぁ、坂本」


 帰り支度をする私に、柳原くんがなぜか満面の笑みを向けてくる。


「やっぱ俺のカン当たったわ。俺はまだここにいるし、まあ頑張れよ」

「え、じゃあお会計は私が」

「それもええって。俺からの祝福金ってことで」


 それにしてもおまえの義弟なかなかイケメンやなぁとか言いながら、柳原くんはさっさと行けと手を振ってくる。

 本当に、やっぱりいい奴なんだよなぁ。

 どうして彼女できないんだろ、この人。


「ありがとう柳原くん。祝福金は何のことか分かんないから、このお礼はまた今度ね」


 帰り支度が整った私は席を立つ。

 それから、帰る前に「あ」と、一度柳原くんを振り返った。もし気づいてないのなら、教えてあげたほうが親切かな、と思って。


「ちなみにね、今ここ、男子柳原くんだけだから。その、早めに出たほうが気まずくならないと思うよ」

「誰のせいや!」


 ちょっとした私の親切心が、見事あだになったのは言うまでもない。

 




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