弟の告白


 姉貴がおかしいのは、正直いつものことである。


 季節じゃないのに水着を着てみたり、挙句それを義弟の俺に見せてきたり。

 いきなりクイズ形式で好きな芸能人を訊かれたこともあった。いや、それ自体は別にいい。けれどそれだけで終わらないと確信できるから、姉貴はよく分からないのだ。

 そのときは内心で言い当てられてしまったので、わざと全く別のタイプのグラビアの名前を挙げておいたのだが、のちに俺はそれを海よりも深く悔いる羽目になる。(ちなみに俺の名誉のために言っておくが、そのグラビアを知っていたのはクラスメイトのせいだ)

 

 それで、姉貴があんなことを訊いてきた理由だが。

 それは姉貴の心が答えてくれた。

 曰く、男が好むような女になるためだとか。うん、やっぱり意味が分からない。


(つーか、そんなことすんなっつの)


 案の定、後日ドヤ顔の姉貴に呼ばれた俺は、姉貴曰くの尾崎加奈子を見せられた。

 うん、マジやめて。水着も大概だったが胸元の開いたノースリーブもかなりやばい。水着のときから思ってたけど、意外にその、姉貴は胸があるようで。

 しかもチラ見えする下着がなんかエロいんだけど! 見えそうで見えないのがたまんないんだけど!

 絶対狙ってるだろそれ。もしかして襲ってくださいって言ってんの? え、据え膳?


 とにかく、そんな感じで姉貴がよく分からないことは幾度とあった。心の聲が聞こえても分からない人間は彼女が初めてである。


 でも。

 今日ほど姉貴を分からないと思ったことは、今までなかったかもしれない。


「ゆうくん、チュー」

「……」

「ほぉらゆうじくーん、お姉さんがチューしてあげるよー」

「……姉貴、酔ってんの?」

「ノンノン。私まだ18歳。お酒は飲んじゃダメなのです」


 え、じゃあナニコレ?


「まさか姉貴、フラれた……?」


 思わず訊いてしまった俺に、姉貴はムスッと分かりやすい答えを返してきた。


「マジで?」

「違う。フラれてない。……まだ」


 ぽつりと零された最後の言葉は、きっと姉貴の意地なのだろう。恨みがましそうに睨まれるが、俺はそんなことより上がる口角を抑えるのに必死だった。


「というかゆうくん、なんで私に好きな人がいること知ってるの?」

「あーそれは……」


 姉貴が不安そうな瞳でじっと見つめてくる。まるで逃がさないとでも言うように、両の手をぎゅっと握られた。


(しまった。つい口を滑らせたな。どうやって誤魔化す? まさか心の中を読んだから、なんて言えないし)


 そう考えてた俺の耳に、姉貴の追加の質問が放たれる。


「ねぇ、まさか、相手も知ってるの?」

「そこまでは知らねぇよ」

(むしろ知ってたらそいつの顔拝みに行ってるから、俺)


 すると、俺の答えに安堵したのか、あからさまにほっと胸を撫で下ろす姉貴に、俺の中では言い知れぬモヤモヤが立ち込めた。

 なんだその顔は。俺に知られたくない相手ってか? ……ムカつく。


「なあ、姉貴」


 そう言いながら俺の両手を握る姉貴の手を振りほどくと、今度は俺が姉貴のあごに手を添えてやる。

 いつもいつも勘弁してくれと思う姉貴の奇行は、今日ばかりは見過ごせない。

 しかも好きな男にフラれた腹いせを俺にするとか、余計にムカつくんだよ。


「無防備に男にキスを迫るとどうなるか、教えてやろうか?」

「え?」


 くいっと顔を上に向けさせて、キスのしやすい角度で止める。

 わざとらしく口端を上げて、底意地の悪い笑みを浮かべてやった。

 ぎし、と座っていたソファが沈み込む。


「ま、待ってゆうくんっ」

「なんだよ。今さら怖じ気づいた? 先に誘ってきたのはそっちだろ?」

「さ、さそ……」

「俺はあくまで義理の弟なんだよ? 俺も1人の男だってこと、忘れてない?」


 姉貴が勢いよく首を横に振る。

 それはどういう意味の否定なのだろうか。

 でもどんな意味だろうと、今日の俺は止まってやるつもりはない。いい加減お灸を据えてやらないと、こっちの理性が保たないのだから。


「俺とチュー、したいんじゃねぇの?」

「!? で、でもあの、だって」

「血は繋がってないよ、俺たち」

「そ、じゃなくてっ。だって……!」

「じゃあなに? 姉貴は俺のこと、弟としてしか見られない?」

「そんな。わた、私、より、ゆうくんのほうが……っ」


 か細い声で震え始めた姉貴に、俺はちょっとやりすぎたかと思い始める。

 しかも目に涙まで溜めてねぇか? あれ、それ俺のせい? 俺のことそんなに嫌だった!?

 

 ――あ、俺のが泣きそうだわ。

 そう思っていると。


(ゆうくんのバカ! 最低男! だってゆうくんが……ゆうくんが他の女の子とキスするから……っ)

「――は?」


 あれ、おかしいな。なんか幻聴が聞こえたんだけど。俺は思わず唖然とした。

 俺の力もついに衰えたのだろうか。

 だって、誰が誰と、キスしたって?


「なあ姉貴。ちょっと今思ったこと言ってみてくんない?」

(絶対、いや!)


 そんな内心の拒絶とともに、ふんっと顔を逸らされる。

 そのせいで、唖然としていた俺の手から姉貴の顔が解放されてしまった。

 今だけは、背景で聞こえるテレビの音が酷くうるさく感じる。一緒に座っていたソファの反対の端っこまで逃げられて、姉貴はやっぱりきつく俺を睨んでいた。

 身に覚えのないことで責められている俺は、いったいどうすればいいと言うのだろう。


(てか、あれ。なんで姉貴が怒ってんの……?)


 俺はそこでふと気づいた。

 よくよく考えれば、俺がどこの女とキスしようがしまいが、普通弟の俺のことなんて姉貴にはどうでもいいはずだ。

 でも、姉貴は現に今、涙目で俺を責め立てている。

 それにはまさか、という思いが広がった。


「姉貴、ちょっとこっち来て」

「ふんだ。ゆうくんの変態」

(ムッツリスケベ)


 W攻撃が地味に痛い。


「あのなあ、さっきから言ってるけど、俺だって男なんだよ。健全な男子高校生なの」


 なかばやけになりながら答えると、姉貴はますます頬を膨らませる。

 しかもなんかあれ、瞳に侮蔑の色も浮かんでますけど、気のせいですよねちょっと。

 俺のハートはプレパラートなんだよその目はやめろ!


「なにさ、健全な男子高校生って」

「え?」


 姉貴の眼差しにちょっと心折られていた俺は、ぼそっと呟かれた姉貴の言葉に現実に戻される。

 そのとき見た姉貴の顔は、もう涙が溢れそうで。風呂に入った後だから頬は上気しているし格好は薄着の寝間着だしで、正直、こんなときだろうと目のやり場に困ってしまった。

 だから健全な男子なめんじゃねぇよ!


「あのさ、姉貴。とりあえずいったん……」

「ゆうくんはいつだって、私に誘惑されてくれないくせに!」

(あんなに頑張って誘惑してたのにっ)


 一度なだめようとしたが遮られ、しかも信じられない言葉が聞こえてきた。


「いやいや待て待て。姉貴、自分がなに言ってるか分かってる?」

「分かってるよ! 私ってそんなに色気ない? 健全な男子高校生ですら振り向かないほど?」

「いやだから、自分がなに言ってるか――」

「だから分かってるって言ってるじゃない!」

「分かってねぇよ!!」


 びくり。姉貴の体が大きく跳ね上がったのを視界で捉える。

 自分でも怒鳴るように言ってしまったことに驚いたが、でも仕方ないだろ? この無防備女は、やっぱり分かってないのだから。


「姉貴ってさ、誰に対してもそんな感じなわけ?」


 意図せず零れ落ちたのは、蔑むような笑みだった。


「慰めてくれるなら、男なら誰でもいいって?」


 自分で自分を止められない。こんな言葉を口にすれば、姉貴が傷つくのは分かってる。姉貴がそんな女じゃないことも、俺はちゃんと知っている。

 でも、口は勝手に動いてしまう。

 俺は、姉貴の好きな男の代わりなんて、まっぴらごめんだ。


「義弟にまで手を出すほど、いつからそんな見境のない女になったんだよ」

「……っ」


 あ、と思った。

 俺の最後の言葉に、姉貴が酷く傷ついた表情をしたから。

 自分で言っててもその鋭さに最低だと思った。

 違う。本当は、姉貴を傷つけたいわけじゃないのに。


「…………かった」

「え?」


 姉貴の顔が俯く。あまりにか細い声を、俺の耳は拾ってくれない。


「分かった。ゆうくんの言うとおりにする」

「……は?」


 しかしここで放たれた言葉に、俺はマヌケな声を出してしまった。

 俺の言うとおりって、え、何が?

 姉貴の真意を測りかねて、それまで感じていた怒りやら嫉妬やらが全て霧散した。

 姉貴がすっと静かに立ち上がる。


「行ってきます」

「え、どこに?」


 必死に姉貴の聲を聞こうと耳を澄ませるが、全くと言っていいほど何も聞こえてこない。

 今ほどこの力が必要で、今ほどこの力をぽんこつだと思ったことはない。


「歓楽街」

「はあ!?」

「歓楽街行ってくる! ゆうくんの言うような見境ない女になってくる!」

「待て待て待て! 俺はそういう意味で言ったんじゃ……」

「うるさい! ゆうくんなんて大っ嫌い! 自分は女の子とチューしてるくせに、私のこと止める権利なんてないんだから!」

「そもそもその前提がおかしいから!」


 俺は女とキスした覚えなんてこれっぽっちもない。むしろ目の前にいる女のせいで高校入ってからそんなのとは無縁だ。

 なんでそんな言いがかりをつけられないとならねぇんだ?


「だいたい今何時だと思ってんだ。こんな夜にそんな格好で外出るとかバカだろ」


 俺は引き止めるように姉貴の腕を咄嗟に掴んだ。


「こんな時間だからいいんじゃない。離して」

「離したら行くだろおまえ。絶対行くだろ!?」

「当たり前でしょ」

(ゆうくんが先にそう言ったんだから。ゆうくんなんて嫌い嫌いだーいっきらい! 触らないでよ変態スケベ鈍感マヌケナルシストの中二病!)

「……おい」


 なんだその悪口のオンパレードは。しかも嫌いを連呼し過ぎじゃね? だから俺のハートはプレパラートなんだって! 他の女ならどうでもいいけど姉貴にそれ言われんのは堪えるんだよ! 自分でもびっくりなくらい胸がズキってなって……あ、やばい泣きそう。

 本当に、今ほど自分の力が要らないと思ったこともない。


「分かった姉貴。さっきのは俺が謝る。見境ない女って言って悪かった。ごめん」

「……」

「本当は思ってないから、そんなこと」

「……誤魔化されないよ?」

「誤魔化してねぇよ」

「……本当に?」

「ほんとだって」


 じーっと姉貴が俺を見てくる。

 その間も俺は姉貴の腕を掴んだまま離さなかった。たまに突拍子もないことをやらかす姉貴は、有言実行の女だから恐ろしい。


(うわ、どうしよう。まだ疑われてる? いや、それもそうか。傷つけたの俺だし。どうやったら信じてもらえるんだ?)


 姉貴はまだ立ったまま俺から視線を逸らさない。

 だから俺も視線を外さず、真摯に応える。

 俺の心の聲が、姉貴に届けばいいのに、なんて思いながら。


「うん、信じる」

「え、」

「ゆうくんが、ちゃんと本心で謝ってくれてるから、だから信じる。歓楽街も諦める」

「そ、か」

「その代わり、チューして」

「はい!?」


 おい、その話は終わったんじゃなかったのかよ!


「はいって言った? 今」

「その『はい』じゃねぇよ!」

「そっか。じゃあやっぱり私、歓楽街に……」

「バカ待て止まれ。脅しかそれは」

「脅しです」


 きっぱり言われた。

 やばい今ものすごく盛大なため息つきたいんだけどいいよな? 別にいいよな?


「……知ってるか、姉貴」

「なにを?」

「男ってのはな、チューだけでは終われない哀れな生き物なんだよ。だからな、そういうのは」

「じゃあゆうくんも、キスだけじゃ終われない?」


 ぐはっ。俺は千ポイントのダメージをくらった。無理だ。復活なんてできない。

 忘れられてるかもしれないから言わせてもらうが、姉貴の顔は俺の好みど真ん中なのだ。

 それが小首を傾げて上目遣いとか……上目遣いとか……!

 あ、これやっぱ据え膳だわ。食っていいよね。貪っていいよね!?


(なにこれなんの拷問なわけ……?)


「あね――」


 ――き。と、呼ぼうとした唇に、突然柔らかくて湿った感触が俺の脳に刺激を与えた。

 遅れて鼻に抜ける、姉貴の匂い。甘いその香りに頭がくらくらする。

 ここぞというときにつけるんじゃなかったのかよと、頭の片隅でぼんやり思った。

 

 ――って違う。そうじゃない。

 そんなことより俺は今、何をされている?


「……ん」

「あね、き……」


 角度を変えるためか、一度温もりが離れたときになけなしの理性で姉貴を止める。

 でもまたすぐに俺の口は塞がられてしまい、その柔らかい感触に、ついに俺の中で火がついた。


「へぁっ」


 どちらかというと触れるだけだった姉貴のキスは、自分からこんなことをするくらいだから慣れているのかと思いきや、意外にもつたない。

 それに焦れたのはむしろ俺のほうだった。


 ぐっと強く俺の唇を姉貴のそれに押し当てて、そのまま2人でソファになだれ込む。

 何度も何度も角度を変えて、その際に少しだけ開かれた姉貴の口内に、俺は強引に自分の舌を侵入させた。

 

(やばい……止まんない)


 ああ俺、今姉貴を押し倒してるんだな、とそんなことをふと思う。

 あれだけ我慢して抑えて自戒していた想いを、我慢して抑えて自戒していた分、堰を切ったように姉貴に押し付けている。


「……ぁ、ゆ、く……んっ」

「言っただろ。男を煽るとどうなるか、知らないぞって」

「ん。だか……やめ、なぃ、で」

「!」


(なんなんだよ! 本当に理性失くすぞこのバカ。そんなこと言うなよ……っ)


 でももう、正直手遅れだった。

 積もりに積もった今までの欲が、完全に暴走し始めている。

 うるさかったテレビの音も、今は全く気にならない。俺と姉貴の絡み合う音だけが、この場に響いているようだ。

 

 俺の舌に必死に応えようとして。

 目尻から涙を零して。

 ときおり漏れる熱い吐息。甘い声。

 脳を痺れさせる姉貴の匂い、その全てに夢中になる。

 夢中になり過ぎて、やらかした。


「ただーいまー」

「「!?」」


 一階から聞こえてきた母の声に、俺たちはそろって体を跳ねさせる。

 そうして現実に戻ると、慌てて覆いかぶさっていた姉貴からどいて力の抜けている姉貴も一緒に起こしてやった。

 つか、今日は遅くなるんじゃなかったのかよ!


「お、2人ともまだ起きてたの。いやあ疲れた疲れた。愛しのビールはどっこかなー」


 まるで漫画のようにお約束のタイミングで帰ってきた母親に若干イラついたが、時計を見れば確かに時刻はすでに24時。

 うん、母は何も悪くない。むしろこんな時間までお疲れ様です。


「姉貴、とりあえず今日はもう……」

「っ、お先失礼します!」

「は……え?」

「あら、夏希ちゃん寝るの? おやすみ〜」

「はいおやすみなさいかずえちゃん!」


 どこの軍隊だ、と言いたくなる声量で就寝の挨拶をした姉貴は、そのまま脱兎の如く部屋へと駆け出して行く。

 後に残された俺としては、まさにぽかーんとする他ない。


「なになに、どしたの夏希ちゃん。まさかあんた何かやらかした?」

「……うっせ」


 今日はやっぱり、姉貴がよく分からない。





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