第三章 (5) おしゃれなカフェで待ち合わせ
謎のメールにより指定されたカフェは、橘が転校前に行っていたような安いチェーン店などではなかった。
そもそも高級ホテルの一階に位置する段階で嫌な予感はしたのである。しっとりとしたクラシック音楽が流れた店内は喧騒もなくただただ静かで、ほんのりとコーヒーの匂いが漂っていた。入口付近でうろうろしていたところ、奥から店員が現れた。店員ですらきっちりとスーツを着込んでいる。
それに対し、ただのTシャツにジーパン姿の橘である。正直、場違い甚だしい。
「おひとりさまですか」
と尋ねられたので、どう答えるべきかと一瞬口ごもる。知らない人に呼ばれました、だなんて言ったら補導されてしまいそうだ。
すると、少し離れたところから別の男性がやってきた。
「すみません、彼は私の連れです」
年齢は二十代半ばくらいだろうか。背は橘よりもわずかに高く、茶色の髪は頭の後ろでひとつに束ねられている。瞳が薄氷の色をしていることに気が付いて、橘はへえ、と思った。
彼は店員と一言二言の会話をすると、「おいで」と橘を引きつれて奥の席へ向かった。通された席は壁際の二人席。小さなテーブルには畳まれた新聞とコーヒー、それからラップトップが一台並べられている。
促されるまま深紅のベロアが張られたふかふかのソファに腰掛けると、あまりの柔らかさに腰が沈んだ。
「正直なところ、本当に来てくれるとは思わなかった。あ、飲み物を注文しよう。君は、ええと……確かコーヒーは飲めたよね」
「あ、はい。アイスコーヒーがあれば、それで」
「分かった」
男は店員にアイスコーヒー、ついでにミルクレープをふたつ注文する。
店員が去ったのち、彼はようやく橘へ向き直る。
「さて、と。まずは自己紹介だ」
彼は名刺を一枚取り出すと、それを橘へ渡した。「帯刀雪です。初めまして、土岐野橘くん」
「あ、どうも……」
帯刀雪、と聞いたとき、何故か橘の脳裏が焼け焦げたようにちりちりと痛んだ。知っているような気がするのに、どうしてもそれ以上は思い出せない。不思議とこの男とは初めて会った気がしないのだ。
――と、そこまで考えて、ふと橘は疑問に思ったことを口にした。
「どうして俺の名前を知っているんですか」
「君がそれを聞くの?」
帯刀ははっきりとした口調で言った。「聞きたいのはこっちのほうだ。どうして、君が俺のプライベートのアドレスを知っているんだい。どこから漏れたのか知りたいから、ちょっと話を聞かせてほしい」
橘の顔が一気に青ざめた。
やはり、イヴはとんでもないことをしでかしてくれたのではないか。この人が誰かは知らないが、見ず知らずの人間からいきなりメールが来たら気持ちが悪いに決まっている。だが、イヴのことを話したところで、この人は信じてくれるだろうか。
橘の様子を見た帯刀は、ややあって微かに笑みを浮かべた。
「ああ、原因はなんとなく分かっているから大丈夫。君のせいでないことも、なんとなくは分かっているよ」
帯刀はそう言うと、橘にラップトップの画面を見せた。メーラーが起動されたその画面には、短いメッセージと位置情報が埋め込まれている。
――聖クリストフォルス。私はイヴ。私を迎えに来て。私はいまここにいる。
位置情報が示す先は、聖フランチェスコ学院の学生寮だ。
「昨日の夜にこれが届いた。このメールアドレスは君のもので間違いないかな」
「す、すみません……俺は送っていないんです。ええと、どう説明したらいいんだろう。信じてもらいないかもしれないけれど、これ」
橘はイヴの画面を起動したまま、それを帯刀へ見せる。
帯刀は最初はきょとんとした顔をしていたが、画面に映る女性のモデルを目撃するや否や表情が変わった。
「えっ? ちょっとこれ、どういうこと。イヴじゃないか」
その声に反応し、画面の向こうでイヴが胸元でお淑やかに手を振っている。
『久しぶり。クリストフォルス』
「え、ああ、はい。お久しぶりです……お元気そうでなにより」
『少し窮屈だけれど』
「そりゃあそうでしょうね」
驚きはするものの会話が成立している。
てっきり「不思議なアプリだね」くらいのことを言われると思っていた橘は、この謎の順応性に対して度肝を抜かれた。
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