第三章 (4) 旅のはじまり

 彼女から話を聞く限りでは、どうやらこういうことらしい。


 もともと彼女は猊下の元で過ごしていたのだが、ある日『とある災害』の対応のために量子の海に放り出された。万が一のために猊下の居場所を特定できる暗号鍵を持たされていたが、肝心の猊下がなかなか復元しに来ない。

彼女なりに色々と調べ、なんとか猊下の使用するスマートフォンの情報を得ることに成功したが、そこは猊下だと言うべきか。セキュリティがガチガチに固められており、イヴの力ではこじ開けることが出来なかった。それで次点として、比較的侵入しやすかった橘のスマートフォンに入り込み、アプリの体裁を整えてなんとか存在を主張してみた。


「……とりあえず、俺はもうちょっとスマホのセキュリティ対策をちゃんとしようと思った」


 翌日、駅に向かって走る路線バスの中。橘は他に人がいないことをいいことに思わずそんなことを口走ってしまった。

 手元にあるスマートフォンの画面には、昨日と変わらずイヴと名乗る彼女がいる。昨日とは異なり、聖職衣にも似た暗い色のワンピースを身に着けていた。これは今朝方、「服は着てもらっていいですか」と橘が頼み込んだ結果である。


 一方、彼女はカメラ機能を駆使して周りの景色を楽しんでいた。別になにも珍しいことはない、ただの住宅地である。なにが珍しいのかと尋ねたら、彼女は、


『私、あまり外に出たことがないの』

 とだけ答えた。


「それで、イヴ……って呼んでいいの。君は結局俺にどうしてほしいの。俺は今から実家に帰るところなんですけど」


 すると、彼女はきょとんとして言った。


『できれば主人のもとに連れて行ってほしいけれど、なんだか難しそうね』

「そうですね。一般人は猊下にやすやすと会うことはできませんね」

『……うん? あなた、自分が一般人だと思っているの』


 この発言に少し傷ついた橘である。

「明らかに一般人でしょうよ」

 拗ねた口調で答え、橘は車窓から窓の外を眺めた。


 ただでさえ、受け入れられないことばかりなのだ。夢のことといい、謎のアプリのことといい。昨日からなんだか変なことばかり起こっているのはどういうことだろう。

 まだ朝早い時間帯なのに、ものすごく疲れた。主にこのめちゃくちゃ喋る謎アプリのせいで。


 そのとき、スマートフォンがメールの受信を訴えて震えた。


『あっ、お返事が来たみたい』

 それに気づいた彼女が嬉しそうに頬を緩ませる。

「えっ? なんで君が喜ぶの」

『あなたが寝ている間にメールを送ったの。よかった、無事に届いたのね』


 それを耳にした橘は、思わず身体を硬直させた。

 なんだか、この女、とんでもないことを口にしなかったか。メールを、送った? 自分が知らないうちに?


「いったい誰に送ったんだ」

 慌ててメールアプリを起動し内容を確認すると、橘のアドレス帳には登録されていない見知らぬアドレスからメッセージが届いていた。開いてみると、短くこのように書かれている。


 ――どこの誰だか知らないが、本物のイヴだと証明してみせろ。


 橘の血の気が引いた。

 そのことに気づいていないイヴは、のほほんとした口調で小首を傾げている。

『ええと、少し難しいお返事ね。どう返しましょうか……』

「ちょっと、本当に誰にメールしたの。この文面、明らかに君のことを知っているよね?」

『聖クリストフォルスに、ちょっと』


 だからそれは誰だ。

 まったく話が通じない。橘はがっくりと肩を落とし、彼女の返答はこれ以上聞かないことにした。もうどうにでもなれ。とりあえず実家に戻り次第スマートフォンを買い替えよう。そう思った矢先、もう一通メールが届いたことに気が付いた。先ほどと同じメールアドレスからだ。


 ――もしかして、橘くんの携帯にいるのか。東十六夜駅前のセントヒルズ・カフェにいるから、今すぐ来て。


「だから、誰なんだよ、もう……」

 できれば無視したかったが、メールを送った張本人は行く気満々といった様子でこちらを見つめている。


『お願い、連れて行って』

「だから、俺はこれから新幹線に――」

『新幹線、止まっているわよ』

「え?」


 ほら、と彼女はネットニュースの画面を開いて見せた。更新日は本日、今から三十分ほど前の出来事だった。車両トラブルが発生したようで、全線運転見合わせ。再開の見込みは立っていないとのことである。 

 彼女が記事を偽装したのではないかと思った橘は、自分でもこの件についての情報を調べてみることにした。だが、他の記事でも、いつも使っているSNSでも、まったく同じことが書かれている。


『時間、あるでしょう?』


 呆然としたところで、路線バスが停車した。終点・東十六夜駅前に到着したのである。

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