第三章 (3) Eve Ver.10093
――昼間の件は、さすがに暑くて頭がのぼせたのだろう。中二病じゃあるまいし、ラノベ主人公じゃあるまいし。なにを妄想しているんだ、俺は。
その後寮に戻った橘は、終業式の猊下の映像についてあれこれ悩んだ結果、そんな結論を出すに至った。
さすがに自分でもおかしいとは思ったのだ。夢にその人が出てきたからと言って自分に関わりがあるだなんて、そんなうまい話があるはずなかろう。たとえば、「夢に推しのアイドルが出てきた」とはしゃぐ隣室の生徒は推しとなにか関わりがあるのか? 否、ない。人生そんなもんだ。
全ては夏のせいだということにし、橘は明日以降の帰省準備を始めた。
聖フランチェスコ学院は全寮制だが、夏季休暇中は特別な事情のある生徒を除き帰省することになっている。橘もまた例外ではなく、明日の新幹線で実家に帰るつもりでいた。
着替えや宿題などをスポーツバッグに詰めると、橘は壁掛け時計を仰ぐ。時刻は二十時前だった。できれば明日の移動中に楽しむ飲食物を購入しておきたかったのだが、寮の門限はとうに過ぎている。
「全部あの夢のせいだ」
あの夢のことでごちゃごちゃと悩まずにいたら、もう少し時間配分を考えて動くことができただろうに。どうせ夢なのに、なんでこんなに気になるのだろう。
そう考えていたら、なんだか夜風にあたりたくなった。橘は部屋の戸を開け、桟にもたれかかる。少し離れたところに校舎が見える。今は明かりが落とされ、非常灯だけが暗闇にぼんやりと浮かび上がっていた。
もう気にしないと心に決めたはずなのに、頭を過るのは昼間の猊下の姿だ。
「なんか、思ったより庶民っぽかったなぁ……」
もっとこう、神々しさというか、そういうものがあるかと思ったのだが。
橘はスウェットのポケットからスマートフォンを取り出すと、ブラウザを立ち上げた。何の気なしに検索サイトを立ち上げると、気まぐれに「シリキウス」と打ち込んでみる。
検索結果の最上位には、猊下に関連するまとめサイトが表示された。
「へえ、猊下の本名って姫良三善っていうんだ……。母ちゃんの旧姓と同じ苗字じゃん……」
少し変わった苗字故に親戚筋でしかこの名前の人物に出会ったことがなかった橘は、勝手に親近感を覚えてしまった。
画面をスクロールして画面遷移すると、ほんの少しだけだが追加情報が掲載されている。たとえば、司教試験における実技分野は満点で突破していることや、AI関連の研究に精通していること、いくつか特許を取得している技術があること、など。おまけとしてホットケーキが好きと書かれていたが、これは至極どうでもいい情報である。
勝手に親近感を覚えておきながら、やはり雲の上の人であるということを再認識した橘であった。
「なんだこれ、同じ人間かよ」
というありがちな感想を口にし、スマートフォンの画面を落とそうとした。
だが、
「あれ」
ホーム画面に戻ったところで、橘は思わず首を傾げてしまった。
何やら見覚えのないアプリが表示されているのである。アプリ名は「Eve Ver.10093」。こんなものはダウンロードした覚えがないのだが。
橘はしばらく考えて、そのアプリをアンインストールすることにした。
怪しげなものには触らないほうがよい。変なウイルスにでも感染したら大変なことになる。
アプリを長押しし、消去ボタンを押下。いつもであればこの手順で消えるはずである。しかしながら、
「き、消えない……」
何度同じ手順を繰り返しても、そのアプリは消えることがなかった。本体を再起動してみても結果は変わらず。
なにこれ。超怪しいんですけど。
とりあえずしつこく消去のボタンを連打する橘だったが、何度も繰り返し操作したせいだろう。一瞬手元が狂い、アプリが起動されてしまった。
「やばっ」
架空請求まっしぐら。橘の顔色はさっと青ざめた。
画面に映る「Now Loading」の文字。数拍置いて、画面に表示されたものは――
「あ……」
――とても美しい、白髪の少女の姿だった。
今までいくつかスマホゲームで遊んでみたけれど、ここまで美しいグラフィックは正直見たことがない。画面越しなのに、なぜかそれが生きているようにも感じられた。少女は一糸まとわぬ姿で、まるで卵にでも包まれているかのように四肢を曲げて眠りについている。
橘は、そんな彼女から目が離せなかった。
すると、画面の中で少女が微かに震えた。のろのろと瞼をこじ開け、それから画面の向こうにいる橘を視認したかのようにじっとこちらを見つめるではないか。
目が覚めるような、宝石を連想させる紅い瞳。橘の心臓が跳ねた。
『……イスカリオテの、ユダ』
彼女はぽつりと呟いた。『やっとたどり着いた』
「え、なにこれ……」
随分リアルな仕様である。橘は動揺し、思わず声が上ずってしまう。「ゲームなのにめっちゃ喋る……そういうシナリオなのかな」
『私はゲームじゃない。プラットフォームは借りているけれど、ゲームじゃない』
橘の言葉に反応し、彼女は声を上げた。『イスカリオテのユダ。
「主人? 一体なんのことだ」
『
彼女はそう言いながら橘を仰ぐも、彼の困惑する表情を見てその意味を理解したらしい。
『……姫良三善のことよ。これでも分からないの』
彼女は責めるように言う。『嘘、やっと戻れたと思ったのに……』
「ちょ、ちょっと待って」
今にも泣きそうになっている彼女を見て、慌てたのは橘のほうである。
なんだか突然妙なことを言い始めたけれど、何だって? なんで彼女が俺に向かって猊下の所在を聞くんだ。聞く相手が間違っていないか。
混乱する頭の中、橘は咄嗟に思いついた質問を投げかけた。
「君は誰?」
すると、彼女はピタリと動きを止めた。おずおずと橘の顔色を窺い、ややあって、消え入りそうな声で呟く。
『人工預言者コモンタイプ、イヴ。あなた、私のことも分からないの……?』
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