第三章 (1) 記憶は夢の中に

 夢を、見ていた。


 その場所に見覚えはなかった。本来はどこかの街中だったのだろうが、今はその面影はない。ただただ、地上から降り注ぐ冷たい雪のようなものに埋められていくのみだ。

 触れても決して溶けることのない、雪ではないなにかによる一面の銀世界。夕焼けが妙に眩しくて、思わず目をきゅっと細める。


 ここはどこだろう。

 そう思ったとき、少し離れたところから声がするのだ。


 ――ロン。


 男の声だ。その声を耳にしたら、なんだか懐かしいような、不思議な気持ちになる。どうしてそんな気持ちになるのかは分からなかった。ただ、その声の主に会わなくては、と。そう強く願ってしまうのだ。


 ――リーナ。

 ――ホセ。

 ――ジョン。

 ――アンデレ。

 ――カナ。

 ――雨ちゃん。

 ――ケファ。


 聞き覚えのない名前が順番に呼ばれていく。

 男の声は微かに震え、……少し間を空けて、こう呼んだ。


***


「――橘。土岐野橘」


 はっとして、彼・土岐野橘は顔を上げた。

 気づくと、教壇に立つ教師はおろか、教室にいる生徒の目線がすべてこちらに向けられている。その視線はどこか冷ややかだ。


 今は教会史の授業真っ最中だということに、橘はそのときようやく思い出したのだった。転入したばかりで授業についていけず、ついでに言うと昼休み直後という一番眠気が襲うこの時間帯。眠気に抗えと言うほうが無理に決まっている。


「具合が悪いなら保健室に行きなさい」

「は、はい。すみません……」


 橘はしおしおと肩を竦めつつ謝罪すると、再び手元の教科書へと目を落とした。一応よだれの被害には遭わなかった教会史の教科書。開かれたページには、約十年前に起こった『聖戦』についての記述があった。


 ――いきなりこんなもん見せられても、ついていけねぇよ。


 橘は胸の内でそっと悪態をつく。


 橘が本州第三区・東十六夜市に位置する聖フランチェスコ学院へ編入したのはつい一か月ほど前のことだ。それまでは地元の公立高校に通っていたのだが、ある日突然父親がこの学院に編入しろと言い始めたのである。


 橘は猛抗議したが、必死の抵抗むなしく、あれよあれよと編入手続きが進んで今に至る。おそらく父は初めからこの学校に入学させる気だったのだ。たまたま昨年長期出張に出ており、少し目を離した隙に橘が勝手に公立高校への入学を決めたものだから、それが気に入らないだけなのだ。


 ――自分の人生くらい、自分で決めたいんだけど。俺、親父みたいに頭よくないし。


 橘は思う。

 別に将来は学者になりたいだなんて思っていない。ただ普通に生きられればそれでいい。

 それでいいのだけれど。


 そこまで考えて、橘はふとさきほどまで見ていた夢のことを思い出す。


 昔から、あの夢を見ることがある。雪――というよりは、塩のようなものに覆われた場所で、その男の声だけが聞こえるのだ。彼は数人の名を呼んだのち、何故か自分の名を呼ぶ。そして必ず、そのタイミングで目が覚めるのである。あまりに頻繁に見る夢だから、男が呼ぶ人の名前は覚えてしまった。


 あの男の声の正体。あれはいったい誰なんだろう。もしかして、実在する人間なのだろうか。夢の内容を信じるなんてラノベじみたことは正直性に合わないけれど、もしも実在するなら会ってみたい。


 そして聞くのだ。

 どうしてそんなに悲しそうな声で俺の名を呼ぶのか――と。

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