第二章 (3) 結果の、その向こう側
なにを、と言わずとも、この場にいる二人であれば容易に察することができただろう。
三善の目線の先には、掌よりひと回り小さいくらいの模様があった。左脇腹よりさらに背中側に、家紋だろうか、円の中に鳥が向かい合うような図が施されている。慶馬は心底嫌そうに、無理やりたくし上げられたセーターの裾を下げた。
「なんですか、一体……」
「美袋さん。そういうのって、やっぱり好きで入れるものなの」
不躾にもほどがある発言である。三善の問いの真意は不明だが、それがただの無知ゆえの言動ともとれなかった。
そのためだろうか。慶馬は小さく首を横に振り、穏やかな口調で答えてくれた。
「人によります。俺の場合は、仕方なく、です」
「仕方なく、というのは」
「万が一ここが切り離されたとしても体の持ち主が誰なのか分かるように、です」
彼はそう言って、親指を立てた己の右手で首を突いた。要するにIDタグの代わりということだ。そもそも美袋家は帯刀家の護衛――三善の中ではそういうことにしてある――をして生きてきた訳だから、必然的にそういう文化が根付いているのかもしれない。
「そう」
ありがとう、と礼を伝えると、三善はそのままじっと何かを考え始めた。
胸の中で引っかかっていたものの正体が掴めそうな気がする。こういうものについて、今までになにか見聞きした覚えはなかったろうか。
たとえば――そうだ。あれに類似するものとして挙げるなら、『聖痕』、とか。
そう考えているうちに、帯刀も三善の傍までやってきて腰掛けた。そのタイミングを見計らい、三善はぽつりと言葉を発する。
「――なあ、ゆき君」
「なした?」
「おれ、そういえば、見たことがない」
何を? と帯刀がいつもの調子で淡々と尋ねる。
「ケファの『聖痕』」
その問いに、三善は間髪入れず答えた。「あれだけ一緒にいて、ヨハンとして一緒にいたときだってそうだ。おれはあのひとの背中をちゃんと見たことがない」
その言葉に、帯刀ははっと息を飲んだ。
「みよちゃん、それは本当か。本当に、一度も見ていないのか」
「ああ。なんで気づかなかったんだろう」
ただひとり、慶馬だけが話についていけずきょとんとしたのに気が付いて、三善は自分の鞄からクロッキー帳を取り出した――考え事をするための落書き帳である――。そしてそれを二人に見えるように置き、鉛筆を走らせる。
「ええと、さっき露天風呂でゆき君と話した通り、ゆき君と美袋さんが『一〇〇九三回目』以降『楔』を穿たれなくなったのは多分おれのせいだ。『一〇〇九三回目』にてふたりの楔を外すとき、正規の手順を踏まずに『喪神術』を使ったためと考えられる」
三善は自分の言葉の要約をさらさらと紙に書き起こし、頭ではさらに次のことを考え始めている。手が動く速さと思考する速さが噛みあっていない。それがとてももどかしく、次第に文字も荒々しく汚くなってゆく。
「それと同時に起こった事象として、ゆき君と美袋さんのふたりは『一〇〇九三回目』以降に発生した試行に関する記憶を持っている。これらの事象から導き出されることは、」
無意識に筆圧が強まり、ざ、と鉛筆の芯が大きく削れる音がした。
「なんらかの手段で『喪神術』をかけられた人物は、釈義による『時間遡行』の影響範囲から外れてしまうのではないか。『時間遡行』の影響を受けないから、ゆき君も美袋さんも過去の試行についての記憶も残るし、楔も再度穿たれることはなかった。神とのつながりを絶たれた者は二度とその道に戻ることはない――という本来的な『喪神』の概念はある意味正しかったのかもしれない」
さて、ここで今までの試行でネックになっていた『ケファ・ストルメントの死について』検証することにする。三善は簡単にタイムラインを書き、その中に彼が死に至ったタイミングを書いた。
「ゆき君、結局おれって何回やり直したんだろ」
「二三四回。よって、現在は『一〇三二七回目』の試行を迎えている」
「さすが」
おれは途中で数えるのをやめてしまったから――と三善は微かに悲しそうに呟く。それに対し帯刀は何かを言おうと口を開いたが、すぐに三善の言葉によりそれは遮られた。
「見ての通り、彼の死に至るタイミングや原因は一貫性がない。よって、おれは遡行する時期・もしくは遡行してからの手順を誤ったのだと推測する。そこで思ったんだが、そもそも彼がそのような事態に陥るきっかけになった出来事はなんだったのだろう」
いくつか可能性がある。
直接的には『喪失者』になったことが挙げられるが、おそらくそれは単なる結果でしかなく、もっと本質的なところに原因があるはずだ。
「『喪失者』であることが立証される条件は、まず、『身体のどこかに聖痕が現れること』。次に、『一度体外に排出された塩分が『釈義』の過剰な熱で融解し始める』――つまり、リバウンドが発生すること。この二つの条件が揃った時、科学研は体内の釈義に関する機構が破壊されたと見做し当該人物を『喪失者』と認定する」
そこでふと、慶馬が口を開いた。
「それって、場合によっては誤診されそうですよね」
その通りだ。三善は頷く。
リバウンドそのものについては現役のプロフェットであれば切っても切り離せない事象である。ただ、もしもリバウンドが起きたからといって必ずしも『喪失者』になるかといえばそうではない。適切に身体を休めれば治るものだし、こじらせなければそれほど大きな問題にはならないはずなのである。
かつて己の父であるホセも現役時代にリバウンドを引き起こした末に『喪失者』に認定されたが、あれはリバウンド発生後も無理に釈義を行使したが故に起こった事象だ。
「だから先ほどの『ケファの聖痕を見たことがない』、の発言につながる。ケファの『聖痕』は果たして本当に本物の『聖痕』なのだろうか。もしかしたら違うものという可能性はないか」
三善の言葉に、帯刀は「だが」と口を挟む。
「当時の『喪失者』認定にはシスター・ジェイとブラザー・ホセが関わっているんだろ。あの二人が間違えるだろうか」
「それでも、『聖痕』が偽物であると考えたほうが辻褄が合うんだよ。だってそうだろ、あいつがヨハン・シャルベルとして存在していた時、トマスは釈義を使えていた」
本当に『喪失者』であるとすれば、既に身体の機構が破壊されているのだから釈義は使えないはずだ。しかしながら、彼はいとも容易く釈義を使って見せた。一度だけではない。何度も、だ。
「一度だけならともかく、再現性が認められる以上『喪失者』であるとは言い難い。おれはそう思う」
「もしそうだとして、ブラザー・ケファの釈義を封じる理由なんて――」
「あるだろ、理由が」
三善は冷たい声色で吐き捨てるように言った。「聖ペテロの釈義の別名は『契約の箱』だ。当時、おれとケファが――おれとケファだけが『契約の箱』の適合者だった。ケファの釈義を封じれば、自然とおれが『契約の箱』の適合者になる」
そういうことだろ、と言い放つ三善の唇は、微かに震えていた。
「つまり、誰か――『契約の箱』の正体を知る者が、おれにそれが渡るように仕向けた可能性があるってことだ。そしてその手段が、」
喪神術なのではないか。
三善はそう言うと、静かに鉛筆を置いた。
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