第二章 (2) 正常に思考するためのブースター
え、と帯刀が声を詰まらせる。
帯刀が動揺するのも無理はない。あの日、あの時。三善は決して細かいことは説明しなかったし、帯刀も詳細を確認しようとはしなかった。それに対してどうこう言うつもりはない。ただ、それはつまり。
帯刀は脳内に溢れる思考のひとつひとつ掴み、束ね、やがて一縷の言葉へと変えた。
「……、みよちゃん、やっぱりあなたはすごいな」
「そうかな」
「そうだよ。要するにあなたは、神しか干渉できない『直線的時間』すらも欺いてみせたんだ。そうか、そういうアプローチがあったんだ――って、俺は今とても驚いている」
わずかにきょとんとした表情を浮かべた三善に、帯刀は淡々と言葉を続ける。
「俺だって、今まで何もしてこなかった訳じゃない。あなたが何百回も試行回数を積み上げている間に、俺たちは“色欲”と会っていたんだ」
「“色欲”と?」
三善が尋ねると、帯刀はひとつ頷いた。
「気になることがあった。彼女が言うには、例の『一〇〇九三回目』よりも前の試行にて『帯刀雪』と『美袋慶馬』に『楔』が穿たれなかったことはなかったらしい。『ケファ・ストルメントが死亡する』事象に比べはるかに確率の高い――ああ、確定で発生する事象を確率とは呼べないな。とにかく、なにがあっても絶対に発生してしまう事柄だったと言っていた」
それにもかかわらず、『一〇〇九三回目』を境に『楔』は消えた。“色欲”が帯刀にコンタクトをとったのは、それが単にヨハネスが姿を消したからなのか、シリキウスが何かやらかしたのかを確認したかったためらしい。
このときの帯刀は真相についてなにも知らなかったので、いくつかの可能性を列挙するくらいしかできなかった。だが、今日三善の話を聞きようやく納得した。
「ポイントは“七つの大罪”が『喪神術』の使用を認識できなかったことだ。みよちゃんの“逆解析”が失敗している可能性も考えたけれど、何百回も繰り返された試行の中でこの件に関してはばらつきがなかった。つまり、別の要因があったのだと思っていた」
「あのときは」
帯刀の声を遮るように、三善がぴしゃりと言い放つ。
大人の身体をした三善が、きゅっと目を細めた。だいぶ遠い記憶となり果ててしまった『一〇〇九三回目』にて帯刀がしばしば感じ取っていた表情だ。あのときは視力がほぼ失われていたのだが、もしも見えていたらこんな顔をしていたのだろう。
――とまあ、帯刀のことだからそんなことを考えていそうだな、と三善は思う。
「あのときは、それが正しい選択だと思った。あなた方は我々の個人的な事情に深い意味で巻き込まれすぎた。ただ楔を消すのではなく、ちゃんと落とし前をつけないと――って思って、それで」
「本当に? 本当にそれだけ?」
「……あなたたちの関係は、そういう鎹がなくとも成立する。おれはね、あなたたちの関係を、アマデウスとサリエリ、もしくは主と一三使徒のようだと、そう思う。だから余計なものを切った。ただそれだけ」
そうか、と帯刀は呟く。
彼らはただ口を閉じ、湯の波打つ音だけにじっと耳を澄ませた。邪魔なものが存在しない二人だけの空間。そう思ってしまうほどに、この場所は静かだ。
ぐちゃぐちゃになったままの思考が緩やかに解けてゆく。何度も何度も繰り返した残酷な記憶がそのたびに蘇り、ぼやけ、そして消えていった。
「……、ゆき君」
「なに?」
「おれ、なにを間違えたのだろう」
三善がぽつりと呟く。「大事なひとを助けたいと思ってはいけないのだろうか」
「俺たちは、それを考えに来たんだよ」
迷う素振りもなく、帯刀はそう答えた。
***
帯刀はもう少し湯船に浸かっていると言うので、三善は先に部屋に戻った。客間には慶馬がおり、ぼんやりと新聞に目を通している。彼は三善がひとりで部屋に戻って来たのを見て、
「若は?」
と短く尋ねた。
「まだ湯に浸かっていたいってさ」
「そうですか」
それじゃあ、と慶馬はテーブルに新聞を畳んで置くと、小さく三善に手招きする。
思わずきょとんとした三善である。いったいどうしたのだろう。そう思いながら慶馬に近づくと、彼は手のひらサイズの紙袋を三善に握らせた。
「えっなにこの怪しい袋」
「若には内緒ですよ」
まさか言葉にしてはいけないものでも入っているのでは。そう思いつつ恐る恐る三善が紙袋の中をのぞき込むと、そこには煙草とマッチが一箱ずつ入っていた。
――これは、今まで欲しくても絶対に手に入れられなかったやつ!
思わずぱっと表情を明るくしてしまった三善である。
「いいの!」
「奥で吸ってくるといい。俺が吸ったことにしておくから」
やったー、とまるで子供のように喜び――今の身体は二十二歳なので、この時点の実年齢はいったん忘れることにした――、三善は慶馬の指示通り奥へ移動する。とりあえず一本だけ吸うつもりで火を点けると、紫煙がふわりと立ち上った。
「ああ……これだよ、これ……」
自分でも頭のおかしいことを口走っている自覚はあったが、心の底からそう思ってしまったのだから仕方がない。しかも、徐々に思考がクリアになっていく。クリアになるどころか加速していることにも三善は驚いた。時代に逆行するようで申し訳ないが、必要。これは自分にとってものすごく必要なものだ。
三善は十分に堪能した後、室内の換気と消臭スプレーを周囲に吹きかけてから慶馬の元へと戻る。
「ありがとう」
「それ、こっちで預かっておきます」
三善は慶馬に紙袋を渡すと、そのまままじまじと彼を見つめた。見つめたと言うより、観察と表現したほうが正確かもしれない。輪郭の一つ一つを写し取るように、その紅玉の瞳が慶馬を滑る。
あまりの居心地の悪さに、慶馬が渋い表情を浮かべた。
「……なんですか」
「美袋さん。ちょっと失礼」
三善は唐突に慶馬の着ていたセーターの裾をひっつかむと、がばりとそれをめくりあげた。
「ぎゃっ!?」
慶馬らしからぬ悲鳴である。それを聞いたからかどうかは定かでないが、絶妙なタイミングで襖が開き、帯刀が顔を覗かせた。
「慶馬、うるさい」
一体何をして――と言いかけた彼は、三善が慶馬の服を脱がせにかかっているという謎の光景を目の当たりにし、
「……お邪魔しました」
と襖を閉めようとする。「慶馬、あとで説教だ。よりによって猊下に手を出そうなんぞ一〇〇年早い」
「若、違う。誤解だ」
とばっちりもいいところである。しかしマイペースの極みである三善、目の前で仲間の主従関係が壊れそうな状況にも関わらず、表情ひとつ崩さない。しばらく彼はそうしていたが、ややあってお目当てのものを見つけたらしい。
「あった、これだ」
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