第二章 (1) 裸の付き合い
もう何度この朝の光景を目の当たりにしたろう。
ようやく意識が浮上した三善は、目をこすりながらサイドボード上の目覚まし時計を手に取った。
二〇〇九年一月二〇日、午前九時一三分。
『例の日』から一週間前の日付だ。少し考える時間が欲しくなり、試しに『契約の箱』を移管して以降無理のない範囲で遡行してみた。九時ちょうどに目が覚めることを期待していたのだが、ほんのわずかに目覚めのタイミングがずれている。
ふむ、と三善は思う。
薄々気づいていたのだが、この『時間遡行』の能力は本来想定していたものとは少し違うのかもしれない。
一回の遡行で四八時間まで戻ることができ、一〇〇回の遡行に対し一時間の睡眠を必要とする。それが件の釈義『時間遡行』の概要である。だが、釈義を使えば使うほど、必要とする睡眠時間が想定より長くなっている気がする。目覚めのタイミングのずれはおそらくそれが理由だと思うのだが、なぜ想定よりも長い時間の睡眠が必要になるのか三善には分からなかった。
一度釈義の内容をちゃんと読み返す必要があるだろう。
そう思ったところで、
「おはよう、猊下」
聞き慣れた声がほど近くで聞こえてきた。
驚いてがばりとベッドから起き上がると、声のしたほうへ目を向ける。
自室に置いている椅子に腰かけた男が一人。サイドの部分だけ長く垂らした独特の茶髪に、日本人にしては珍しい青い瞳。三善ほどではないが目立つこの人物はあいにく一人しか知らない。
「えっ、ゆき君?」
帯刀雪だ。二〇〇九年当時一七歳の彼は、『一〇〇九三回目』にて最後に会った時と比べると当然のことながら幾分若く見えた。そんな彼は暇つぶしに大聖教の会報を呼んでいたらしい。会報を折りたたみながら、彼はぎこちなく口元を緩ませる。
「どうしてここに」
「どうしても何も」
唇の両端はつりあがっているが、目は笑っていない。初めて見る表情に三善は思わず身体を硬直させた。
「ちょっとおバカな猊下を叱ってやろうかと」
何度も言うが、帯刀にバカと言われたこともこれが初めてだ。心当たりはない訳ではなかったが、それが果たして事実かどうか判断できない。三善は念のためと帯刀に尋ねる。
「ゆき君、ええと、もしかして」
「覚えている。この話はもう二回目だから詳しくは省くよ。あなたが随分と無茶をしてくれたから、ここまで来るのに思いのほか手間がかかった。ったく、何百回帰国のためにチケットを買う羽目になったと思っているんだ。ようやく渡米前の日付に戻ってくれたからいいものの……」
三善はようやく理解した。今までの遡行を理解できる帯刀は、三善のために何度も帰国しようとしてくれていたのだ。しかし、三善は『例の日』当日、もしくは二、三日前までの範囲でしか遡行しない。帯刀が『時間遡行』したと把握してから帰国準備を進める間に次の『遡行』が始まる。三善も地獄の無限ループに陥っていたが、帯刀も別の意味で何度もやり直しさせられていたということになる。
それは怒られても無理はない。
三善はしゅんと肩を落とし、「ごめん」とだけ呟いた。
帯刀はゆっくりと腰を上げ、足元に置いていた紙袋を三善に付きつける。
「謝りついでに、ちょっと付き合ってくれないか。既にブラザー・ジョンの許可は取ってある」
紙袋を受け取った三善は、きょとんとして思わず帯刀の顔を凝視してしまった。
***
三善が普段生活している本州第一区は、実は温泉の名所でもある。
帯刀が連れ出した先は、数ある温泉旅館のうちのひとつ。帯刀がよく商談で使っている場所らしい。念のためにと三善は事前に二十二歳の姿となり――帯刀には「ずるい」とだけ言われた――、帯刀のあとをちょこまかと付いて歩いたところ、……最終的に。
「風呂はいいですなぁ……」
なぜか帯刀とふたりで露天風呂に浸かることになった三善であった。
天気は快晴。冬場なので外は寒かったが、一度湯に浸かってしまえば案外平気なものである。どろどろに溶けたアイスクリームの如くだらけた体勢で空を仰ぐと、ふうっと白い息を吐き出した。
「美袋さんは一緒に来なくてよかったの?」
慶馬は予約していた部屋に残っている。
三善がそのように尋ねると、同じく湯船で超絶リラックス状態になっている帯刀は「ああ」と声を上げる。
「あいつは大浴場に入れないから」
帯刀はそれ以上なにも言わなかったが、なんとなく理由を察した三善である。
「背中にお花が咲いているんですね……」
「ちょっとだけな。本当に、ちょっとだけ」
「それ、たぶん大きさや量の問題じゃないと思うよ」
帯刀は露天風呂のへりにもたれかかると、右手で垂れた前髪を掻き上げる。三善と同じように長く息を吐き出すと、きゅっと目を細めた。
「前みたいに始終一緒にいる必要はなくなったから、ようやくこうして温泉にも入れるようになった。ありがと、みよちゃん」
「そう、そのことだよ」
三善はのろのろと口を開く。「前回との差分として、美袋さんの腕が無事だと聞いていたから。もしかしてとは思ったけれど……」
「うん、そう」
帯刀はあっさりと頷く。「あれ以降、慶馬との間には『楔』が存在しなくなった。みよちゃんが何度遡行を繰り返してもそれは変わらなかった」
やはりか。
この場所に来るまでの間、三善はその理由をずっと考えていた。以前と比べ、帯刀と慶馬の距離感が少し、ほんの少し離れた気がしたからだ。色々と考えたけれど、一番可能性が高いのはやはり『楔』の喪失。三善はそう結論付けていた。
「なあ、みよちゃん。あの日、俺たちに施したのは本当に『楔を打ち消す術』だったのか?」
帯刀の問いはある意味核心をついていた。三善は頭の上に乗せていた濡れタオルで一度顔を拭き、じっと口を閉ざす。言葉を選ぶかのように視線を落とすと、
「……いいや。違う」
と答えた。「たぶん、ゆき君が『時間遡行』の結果を記憶し続けているのはそのせいだと思う。おれがゆき君と美袋さんに施したのは『喪神術』だ」
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